コトノハという者達

 いつだって空を見上げれば、柔らかな光がこの世界を包み込んでいた。いつでもそこにあるけれど、決して届くことのない光は、そのかわりとでもいうように色とりどりの【光】を人々に与えてくれるのだった。

 まだ、朝は訪れない。永遠に続くのだろうと思われる夜空でも、手の中に落ちてくる無数の光のおかげで、不思議と、恐れを感じることはなかった。

 果ての見えない星空に抱かれた、たった一つある、巨大な硝子に包まれた街。一基の時計塔を主軸とした世界。一つの州ほどの広さを持つこの世界は、薄暗い陰の中に存在している。しかしとても賑やかで、人で溢れていた。

 人と言っても、生きている人間ではない。この世界にいるほとんどのものは、みな、肉体を失った者達なのである。

 人や動物、種族を問わず、一巡りした魂が束の間の休息を得られるのがこの世界であり、同時に、生きている間に背負った因果を払い落とす役目も担っている。

 多くの場合、罪や厄はこの世界に留まるのみで自然と落ちてゆくのだが、巨大な業を背負ったものは、それだけでは正しく生まれ変わる事ができず、生まれた先の世界を歪めてしまう。その業を払うためにこの世界に留まり続けたとしても、幾星霜ののち、魂が摩滅してしまうだろう。

 そのため、通常とは違う魂の持ち主は、ある特殊な働きをすることで、魂の浄化を行う。

 【コトノハ】。それは、心を贈る役割を持つ者達である。死する直前に残した想いを魂から預かり、それを手渡す。その方法は様々であり、送り先もまた様々である。死者から生者へ、あるいは、死者から死者へ。

 コトノハとなった者達は想いを伝える仲介をすると共に、心を受け渡すと共に、少しずつ浄化されてゆく。そして魂が真っ白に戻ったその瞬間、再び生者の世界に降り立つことを許されるのだ。

 生者の世界とは異なる流れを持つ、死者の世界の時間にして、約五年ほど前のこと、クロナ・エペ・トランジーヤはこの場所に辿り着いた。クロナが生前の記憶が曖昧な多くの魂にまぎれてさまよい歩いているところを、年の離れたコトノハに拾われたのが、彼女の始まりだった。

 それから、五年。因果の度合いにもよるのだが、コトノハの厄落としは長くとも三年、早ければ一年を待たずして完了されるのに対し、彼女は二年を超過した今でも、生まれ変わる兆候はない。

 不安こそあれど、彼女はそのことに対して不満を口にすることはなく、今日も健気に職務に勤しむのだった。

 

 大通りでの宝石収集を終えたクロナは、小さな指をちょこちょこと動かしながら、せっせとその数を数えているところだった。

 この世界の光源にして、加工次第では熱源にも水源にもなりうる宝石は、空に浮かぶ月から降り注ぐ光の結晶であり、恩恵である。無限に降ってくるとはいえ、その小さな欠片一つ一つは貴重なものだ。色、形、大きさごとに加工の方法も違ってくるため、それぞれを均等に集める事ができる目が必要とされる。最初のうちはまったく同じに見える結晶でも、次第にその暖かさや欠け具合から選別できるようになってゆく。

 コトノハたちの手で集められた――この世界を健全に保つための作業もコトノハたちの立派な仕事である――宝石は技術者のもとに送られ、加工され、世界の一部として機能する。クロナは技術的な面にはもっぱら無知であったので、この世界は不思議なもので溢れているのだとただただ感心するばかりだった。

「……じゅうく、にじゅう。よし、ぜんぶ二十ずつね」

 満足そうに呟くと、バスケットに綺麗な花柄の布をかぶせ、大事そうに抱え直す。硬度の高い宝石なのでとくに壊れやすいということはないが、自らがきちんと職務を全うした証なので、届けるまではなるべく丁寧に扱ってやりたいというのがクロナの想いであった。

 できることならばこの足で技術者の元へと宝石を届けたいのはやまやまだが、彼女の宝石収集の時間と本来のコトノハの活動時間が見事に隣り合っているので、それは叶わない。

 そのため、クロナは宝石を別の誰かの手に委ね、それから心を受け渡す活動を開始しなければならない。今の彼女はまだ私服であり、上層部からコトノハへと支給される懐中時計を首からぶら下げているということ以外は、そこらを歩いている住民たちとそう大差ない。

 今現在ただの少女であるクロナは、ただの少女のまま、されどただの少女であれば決して赴くことのない場所へと、宝石を抱え、足を進める。

 この世界の中心である時計塔が、賑わいから遠く離れているにもかかわらず中心とされているのは、やはりその規模、そしてなんといっても、この世界の時間を管理しているのがそこであるという理由からだろう。

 基本的にこの世界には各所に設置されている数基の時計台のほかには、コトノハたちが所有している懐中時計以外に時を刻むものが存在しない。その懐中時計でさえ針をいじることはできず、全ては時計塔の文字盤に同期されている。文字盤の時刻がすなわちこの世界の時間のあり方であり、つまり針を進めると進めるだけ、遅らせると遅らせた分だけ、時間の進み方が変わってしまう。その理屈から、時計塔を支配したならばこの世界の時間を好きにできるという考えにたどり着きそうなものだが、時計の針を進める歯車一つ一つにも意識がないわけではないのだから、そのような悪事には手を貸さないだろう。

 歯車は生命であるのかと問われれば言葉に詰まってしまうが、おそらく時計塔は生きている。大多数の魂がそう信じるのと同じように、クロナ自身もまた、そう思っている。

 あれほど古く大きいものだ。重ねた年月の中で、生命が宿ったとしても、何らおかしいことはない。時計塔の管理者が、ときおり歯車に向かって話しかけているところを見かけることもあるのだから。

 しばらくして時計塔の足下へとたどり着いたクロナは、この時改めて時計塔の大きさに心底感服し――そして同時に、心底うんざりした。

 この時計塔は侵入者対策としてとても入り組んだ構造になっているため、案内なしに登る事は決して容易ではない。もし万が一コトノハでないものが最上階へ赴く用事ができてしまうと、たいそう苦労することとなるだろう。

 が、幸いこの塔の出入りが頻繁なコトノハたちには最上階までの道のりを短縮するための【切符】が支給されている。クロナは自らの立場に感謝しつつ、その【切符】を持ち上げる。クロナ以下コトノハ全員に支給される懐中時計、それが、正しい姿である。

 金古美のボディに美しい装飾が施されており、個人に合わせて作られた一品物のため、同じコトノハ同士であっても交換や貸し出しは出来ないようになっている。

 この懐中時計は最上階への短縮切符として機能するほか、生者の世界と死者の世界をつなぐ架け橋ともなり得る。だからといってコトノハたちが自由に世界を行き来出来るかといえばそうではなく、当然勤務時間外に許可なく世界を跨ぐことは堅く禁じられている。

 竜頭を押し込み蓋を開くと、生成り色の文字盤から、宝石と似た暖かさの光がふわりふわりとたちのぼる。この光色も個々に違っており、クロナの所有するそれからは、夜空を思わせる深い青色の光が沸き上がっている。

 その光がクロナの体を包み込むと、瞬きをする間もなく、彼女の体はその場から消える。消えたと同時に、別の場所にふわりと降り立つ。

「……本当に便利」

 魔法やらなんやらと、メルヘンチックでファンタジックな現象に馴染みのないクロナにとっては、五年経とうと十年経とうと不思議なことには変わりなく、懐中時計を手にしているおかげにしろ、自身がその力を行使していることが未だに信じがたい事実である。クロナはこの世界にくるまでの記憶こそ持たないが、生前の自分が不可思議な力を行使するような立場では絶対になかっただろうな、と静かに考えた。

 顔を上げると、薄暗い廊下に白色の宝石が輝いているのが見える。その先には、両開きの大きな扉。透明な硝子のようにも思える床材は、上を歩くと小気味のよい音をたてた。

「失礼しますメイヤー、クロナです」

 ノックを三回してから語りかけると、数秒後には、分厚い扉が見た目に反して軽やかに開く。廊下に漂っていた荘厳な空気はその時点で何処かに旅立ち、新しく漂い始めた空気には、打って変わって脳天気な彩りが添えられているのであった。

「あっあっクロナ! ちょうどいいところにきたね、少しだけ助けてくれないかな」

 声の主は、書類の束が大量にのった机の下から、彼女へ手を振っていた。クロナは小さくため息をもらすと、時計塔に施されているそれと同じ装飾の椅子に、宝石が入ったバスケットをそっと乗せ、助けを求める部屋の主の元へと向かった。

「大丈夫?」

 机の下でわたわたとしている部屋の主――ボリス・ガーランドに声をかけると、美しい緑色をした瞳が勢い良く彼女に向けられる。少しだけ涙が滲んでいるようにも見えるが、クロナにとっては見慣れた表情であるため、特別気にはならなかった。

「クロナぁ、ちょっと大丈夫じゃないかも……」

「もう、そろそろ自分でどうにかできるようになってよ」

「彼はだって機械じゃないし……クロナ、お願い」

「……」

 クロナは一度むっすりとした表情を浮かべたが、他でもないボリスの頼みなのだ。無下にするわけにもいかない。床に座りこみ、情けない表情でクロナを見つめているこの男は、クロナにとっては兄にも等しい存在なのだ。

 五年前コトノハによって保護されたクロナは、一人で暮らしていける自信がなく、最初の一年の間は、ボリスの部屋で寝食を共にしていた。しばらくしてこの世界にも慣れた頃、さすがに申し訳なくなってきたクロナはボリスの元を離れ、時計塔からそれほど遠くない場所に用意された部屋に移り住んだのだった。

 ボリスはこのままここにいても一向にかまわないと言っていたし、クロナもボリスとの生活に不満を持っているわけではなかったが、彼との生活における楽しみよりも、何故か自分に無償の愛情を注いでくれることへの罪悪感が勝ってしまったのだ。

 結局別居を始めてからも何かとボリスの世話になってしまっているためあまり状況は変わっていないのかもしれないが、それでも、今はわずかでも彼の役にたつことができている。初めて顔を合わせた時、クロナはボリスに完璧な男性という印象を持ち憧れていたものだが、今思えば、完璧でない彼だからこそ、その役に立つことが出来るのだと、いくらか安堵するのだった。

 そんな【完璧ではない男】ボリスの心配そうな眼差しを受けながら、クロナは机の下へ潜り込んでいく。ボリスだと窮屈だろうその空間も、小さなクロナにとってはちょっとした隠れ家のように感じられる。閉鎖感が逆に心地よいとさえ思うが、ここでのんびりと癒やされている場合ではない。

 暗がりを懐中時計の光で照らしてみると、そこに見知った小さな影を見つける。まさに今、ボリスの悩みのタネとなっているそれは、こちらに背を向けて地団駄を踏んでいた。

「こんにちは、ノーレッドさん」

 クロナが声をかけると、名を呼ばれた影は一度高く飛び上がってから、ぴょこぴょこと跳ねた。

「クロナちゃん! やーっと来てくれたんだな、もーまったく話になんないぜ、アイツはァ!」

 ほんのクロナの手のひら大、ずんぐりむっくりな体型のげっ歯類は、ちょこまかと小刻みに動きながらクロナの腕を伝ってその肩に登ると、体に似つかわしくない大きさの耳を押さえながらふんぞり返った。いつ見ても面白い体勢だなと思いつつも、クロナは表情には出さず、彼の話を聞く。

「今日はどうしたの? またボリスに尻尾でも踏まれた?」

 先日ノーレッドが憤慨していた原因はそれであった。その前は紅茶を引っ掛けられ、その前はペンのインキを頭からかぶったのだったか。ボリスも大概抜けているが、いつもそんなシーンに居合わせてしまうノーレッドも随分と間の悪い生き物だと言えるだろう。

 彼はボリスとともに、この時計塔を管理している整備士である。体は小さいが能力は高く、その腕前は流石なもので、時計塔に不調があろうとも、世界の時間に影響が出る前に軽く直してしまうほど。少々そそっかしいところがあるので、彼がボリスによって災難をこうむるのも、一概にボリスだけが悪いとは非常に言いにくい。

 しかしぷりぷりと怒り心頭のノーレッドにそんなことを言っても無駄に終わることはわかりきっている。なので、クロナはとりあえずといったふうに、彼をなだめる。

「そんなに怒らなくてもいいじゃない。寿命が縮んじゃうわ」

「寿命ならさっき五十年ほど縮んだわい! こいつ、オレの目の前に、鋏落としやがったんだぜェ!」

「は、はさみ?」

「そうだよ鋏だ鋏! オレが一歩でも動いてたら首が飛んでたぜ!」

 自らの首の前で親指を滑らせる動作をしてみせるノーレッドに、クロナは音が聞こえるくらい、さっと顔を青ざめさせた。

「うう……これは、ボリスが悪いわ……」

「ええっ!」

 てっきりクロナがかばってくれるものと思い込んでいたボリスは、妹分の冷ややかな声に、泣きそうな顔をさらに歪めた。

「ほれみろ、クロナちゃんはオレの味方でい!」

「味方というわけではないけれど……さすがにわたしでも、自分の体より大きな鋏が目の前に落ちてきたら、怖いどころの話じゃないもの。ボリスもそれはおなじでしょ? だからこれは、ボリスの不注意、ね」

 ピシャリと言い切られ、ボリスは大きく頭を垂れた。ノーレッドはその姿を見ると、まるで釣り針に大きな魚がかかった時のように踊り始める。

 が、クロナは続けて冷静に言い放つ。

「でも、ノーレッドさんも悪いわ」

「えっ! なんでだよォ、オレは殺されかけたんだぜェ!」

「だって、ノーレッドさんが今ここにいること自体がおかしいことなんだもの。わたしの記憶が正しければ、あなたは今D区画の整備真っ最中のはずでしょう?」

 小さな体から擬音が飛び出す錯覚をするほど、露骨に、そして大げさに、ノーレッドはぎくりと体を硬直させた。大方、大した不具合などないだろうと悠長に考えていたのだろう。一応決められた日付には仕事をするが、予定表を逐一守るほどきっちりした性格ではないノーレッドだった。雇用主であるボリスはクロナの指摘に初めて予定表の存在を思い出したのか、壁に貼り付けられている長方形の紙をまじまじと見つめていた。

「つまりは、ノーレッドさんがきちんとお仕事をしていたら、今回の悲劇も起こらなかったんだから。ノーレッドさんはちゃんと予定表を守ること。ボリスは使ったものは元の場所に戻すこと。二人ともきちんとごめんなさいをしてね? それでこの話はおしまい!」

 クロナに促されると、一人と一匹は思いの外素直に頭を下げるのだった。歳のわりにはしっかりしているクロナという少女に、大人たち――ノーレッドは人間の年齢にして三十六ほどだ――は、すこぶる弱いのだった。

「ノーレッドさんは機嫌を損ねると机の下に籠城するの、やめてあげてね。そのうち踏み潰されちゃうから」

「ヒャアおっかねえ! その暁には化けて出てやるからな! 覚悟しろい!」

 この世界にいる時点ですでに化けて出ているようなものなのでは、という言葉を口にすることなく、クロナはノーレッドが人間の扱うサイズの工具を背負って部屋を出てゆくその姿を見送った。

「毎度のことね」

「ごめん……」

「きっとノーレッドさん、この展開にもってくるの、すこし楽しんでるふし、あると思うの」

 呆れ顔のクロナに、ボリスも頷く。

「薄々気がついてはいたけどね……。まあ、彼もクロナのことが大好きだからなあ」

「彼も?」

「僕も大好きだからね」

「あなたってひとは……」

 常日頃からボリスはこの調子なので必要以上に反応を返すことはないが、少々照れ屋なクロナは帽子を深くかぶり、赤くなった顔を乱暴に隠す。

 そんな彼女の挙動に癒やされながら、ボリスはすっかり冷めてしまった紅茶を淹れ直すと、騒動で倒れた椅子を起こして腰を掛けた。先程クロナに注意された際に引き出しの中に仕舞ったのか、机上には例の鋏は見当たらない。

「これ、今日の分だから」

 まだいくらか赤い顔を不器用に隠しながら、クロナは宝石が詰まったバスケットを机上にのせる。

「いつもありがとう、クロナ。助かるよ」

「わたしのお仕事だもの」

 ボリスはバスケットを両手で丁寧に受け取ると、花柄の布をそっと畳み、黄みを帯びた光を放つ宝石を一つ取り上げる。嬉しそうに宝石を眺める彼の顔を見て、クロナも嬉しそうに笑った。

 空から降る宝石がこの世界の全てを機能させているのと同じように、コトノハたちが所有する懐中時計も、当然この宝石からできている。そしてそれを作っているのが、ボリスなのである。

 一体どのようにして作られているのかと一度生成風景を見学させてもらったことのあるクロナに理解できたのは、その方法がまったくの謎技術であったということだけなのだが、この世界における魔法的現象に、そもそも現実的工程があてはめられるはずもない。魔素がどうの、属性がどうのと説明されても、頭の上に大きな疑問符が浮かび上がるばかりだ。

 そろそろ懐中時計の交換時期が近づいてきたらしく、本日クロナが回収した宝石はわずかにボリスに消費されてから、本来ゆくべき製作所へと送られる。本日に限らず、ボリスが宝石を必要としているときは事前に知らされ、コトノハたちは余分に数を回収し、この場所に赴くのである。

 宝石が無事専用の容器に収納されるのを見届けると、クロナは再び懐中時計を開く。

「よし、それじゃあ時間も押していることだし、お仕事に行ってきます」

「あ、待って待って。一度部屋に帰るの面倒じゃない?」

「面倒といえば面倒だけれど……でも、戻らなきゃ、この格好のままお仕事するわけにはいかないもの」

 突然おかしな事を言うのね、とクロナが正直な感想をもらすと、ボリスは慌てて顔の前で手を振った。

「このまま行けってことじゃなくて、ほら、いつも助けてもらってるし、君の手間を少し省かせていただこうと思っただけだよ。つまりはえーと、こういうこと、かな」

 ボリスはクロナが持ってきたものとは別の宝石を手にとり、おもむろに息を吹きかける。宝石はたちまち砂のように崩れ、その欠片はクロナの元へと集まる。なにが始まるのかと目をパチクリとさせている彼女を尻目に、宝石の欠片は輪を作り、彼女の体にそって上から下へと移動していく。すると、なんと輪が通過したところから徐々に彼女の衣服がコトノハのそれへと変化していくのであった。

「ほわ、わ!」

 クロナがおかしな声を上げるのも無理はない。彼女は今、元の服がどうなってしまったのかを必死に考えていたのだから。

 じきに完全に装いが変わったクロナを見て、ボリスは満足そうに笑った。

「いやあ、やっぱりクロナはコトノハの制服が似合うねぇ」

「の、のんびり言っている場合じゃないでしょう! 私の服はどこに行っちゃったの」

「制服と交換しただけだよ。ちゃんと掛かってた場所に戻したから大丈夫」

「そ、そう……それは、なんというか……大丈夫なのかしら……」

 ボリスの魔法を信じていないわけではないが、万が一自分の衣服がこの世界のどこぞにふわり舞い降りてしまったらと考えると気が気でなく、それこそ今すぐ部屋へ戻って確認したい気持ちだ。しかしにこにこと笑うボリスを見る限り失敗を視野に入れることは無意味に等しく、されど如何せん心配症なクロナであった。

「お仕事終わったらすぐに帰ろう……」

「ク、クロナが僕のこと信じてくれない……悲しい」

「あなたのことは信じてるけど、それとこれとは別問題よ……」

 このままでは親切をアダにしてしまう気がしたので、クロナは今は気持ちを切り替えて、とにかく仕事に励もうと顔を上げる。ボリスがさめざめと泣いているのはしょっちゅうの事であるためそれは放っておくこととする。

 大きく息を吸い込み、懐中時計を開く。光に包まれ、クロナは早々と姿を消したのだった。

 クロナが去ったのち、暫くの間机に突っ伏していたボリスは、再び現れたノーレッドによって強制的に整備を手伝わされ、更にさめざめと泣いていたことは時計塔のみぞ知る。

 

 

 

 透明で小さな扉の向こう。秘密の鍵は、魂の奥底への道を繋いでゆく。

 瞳を閉じたまま、クロナは曖昧な感覚に身を委ねる。目を開いたところで、今は意味が無い。視界いっぱいに広がるこの場所の白は、思考をたやすく奪ってしまう。地面に降り立つ感覚すらなく、まるで空中を歩いているような感覚は、いまだに慣れない。

 クロナは開いた懐中時計を一度閉じると、今度はボウにくくりつけている紐を持ち、時計の振り子のようにゆっくりと振る。するとどこからともなく、時を刻む音が響きわたり始めた。その音に耳を傾け、少女は沈黙する。

 この針の音は、【空白の区画】と呼ばれているこの場所――もうすぐ転生を迎える魂たちの集まる場所だ――に溢れる魂たちの調べであり、個々に違う音色の中から、コトノハは此度の依頼人を探しだすのだ。音の洪水の中から一つを探す方法は途方もないように思えるが、転生直前の魂は形が曖昧で、コトノハたちには、それこそ全てが同じように見えるのだ。そこのところは魔法やらテクノロジーやらなんやらで即時特定出来るようにもなりそうなものだが、それはそれで味気がない。レトロなこの世界では、このくらいの手順を踏むほうが、きっと合っているのだろう。

 

 tick...tack...

 心地の良い音色に心を探す。

 tick...tack...

 誰かに伝えたいという、強い祈りを。

 tick...tack...

 何かを残したいという、強い想いを。

 

「……見つけた」

 クロナは確信の声音で呟き、素早い動きで竜頭を引いた。途端に壮大な音の洪水が止まり、先ほどの静寂が息を吹き返す。

「あなたが、私のお話を聞いてくれるコトノハさんかしら?」

 柔らかな声にクロナが瞼を開くと、この区画に負けないほどの白い毛並みを持った大きな犬が、行儀よく座っていた。

 この世界にやってくる魂は、人間だけではない。なのだから、想いを伝えようとしているものも、人間だけとは限らないのだ。

 ノーレッドといい、依頼人といい、人ではないものと言葉を交わす時はクロナもおっかなびっくりだったが、今となっては当たり前だと思うようになっていた。それどころか、いつもは共通言語で話す事ができない相手と手軽に意思疎通を図れる事が嬉しいとさえ感じていた。

「ええ、わたしはコトノハのクロナです。あなたが想いを伝えたい方はどなたでしょう」

 クロナが問うと、白い犬はふさふさのしっぽを振って小さく優しく吠えた。

「どうか楽に話して下さいな、コトノハさん。友人の前では、堅苦しくはしないでしょう?」

「……そうね。友人の前で気を遣うのは、逆に失礼よね」

「ええそうよ。ふふ、嬉しいわ。知っているだろうけれど、私はメリー。よろしくね、私のかわいい友人さん」

 メリーと名乗った犬は嬉しそうにしっぽを振ると、クロナの瞳を見つめ、話し始める。

「私が想いを伝えたいのは、私が死ぬまで一緒にいてくれた、私の家族。この世界に来てから、なぜだかずうっと、忘れてしまっていたの」

 シュンとうなだれてしまったメリーに、クロナは慌てて説明を加える。

「どうか思い出せなかったことを悔やまないでね、メリー。ゆっくり休憩できるように、この世界が記憶を預かっていてくれたのよ。あなたが十分に休めたから、世界は記憶を戻してくれたの」

「そう……。ここにいるみんなも、思い出し始めるのかしら」

「それが遅いか早いかの違いはあれど、じきに、ね」

「よかった。忘れたままじゃあ、悲しいものね」

 あったかいなぁ、と、クロナは感じた。自らの意識がもうすぐ消えようとしている時に、彼女はほかの魂の心配をしている。

「あなた、優しいのね」

「あら、そんなことはないわ。心配症なだけ。今からあなたへお願いすることも、その延長みたいなものよ。聞いてもらえる?」

「もちろん。それがわたしのお仕事……――」

 言いかけて、クロナは言葉を変える。

「大事な友人の、お願いごとなんだもの」

 クロナの言葉を聞いて、メリーはまた嬉しそうに笑った。

 

 彼女が家族と出会ったのは、花が一段と馨しい春の日。人間の夫婦であるアランとベル、そしてその二人の子供、キッドとサリーに見守られながら、彼女は産まれた。まだ開かない目で、暖かな光を感じたことをよく覚えているという。

 本当の母親に育てられながら、また人間の家族とも、まるで血の繋がりがあるかのように分け隔てなく愛情を交わした。犬のきょうだいたちは貰われていったが、それも近所だったのでたまに会い、他愛のない会話を交わすことができたので、寂しくはなかった。

 それでも時が過ぎ、血の繋がった母が他界した時、彼女は途方に暮れてしまった。こんなにも悲しいことがあるのだろうかと、一日中丸まったまま動かない日もあった。しかし、やがて彼女は気がつく。自分よりも、人間の家族の方が、よっぽど悲惨な顔をしていることに。眠っていたことが多かったため気がつかなかったが、朝から晩まで泣き通し、写真を見ては声をあげていたのは、メリーではなく人間たちであった。

 この人たちをなんとかしなければならない。メリーはその時、強くそう感じたという。彼女はなんとかして家族を立ち直らせようと必死になり、結果彼女の願いは果たされた。

 しかし、時の流れは止められない。とある冬の日、メリーは家族に見守られながら、老衰で他界した。彼女にとっては幸せな一生だったと思えるが、彼女を新たな心の支えとしていた家族たちがいまどうなってしまっているのか、それが気が気でなく死んでも死にきれないという。

「もう死んでいるのにおかしな言い回しよね。でもそんなことは置いておいて……私の伝えたいことはね、今までありがとう、ただそれだけなの。でもね、もし私の家族が酷いことになっていたら、ちょっと言いたいことが増えちゃうの。どうしたらいいかしら」

 じっとしていられずうろうろと動きまわるメリーを見つめ、クロナは考える。

「そうね……一度、ご家族の様子を見てみましょうか。許可がないとできないけれど……」

「本当? お願いできるかしら」

「ちょっと聞いてみるわね。すこし待っていてくれる?」

 ひとまず動きまわるメリーを落ち着かせ、クロナは懐中時計に小声で話しかける。

「あの、メイヤー、聞こえますか?」

 二秒ほどの沈黙の後、未だにべそをかきながら仕事をこなしていたボリスが応答した。

「クロナだね……聞こえてるよ。何かあった?」

「はい、ちょっと依頼人の生家の様子を見たいのですが……って、大丈夫? ものすごい鼻声よ」

「ノーレッドの人使いが荒くて悲しいし大丈夫じゃないけど大丈夫。いま機構を少しいじったから、現世の様子を見られるようになったはずだよ」

 沈みきった声音でぽつぽつと話すボリスだったが、気分に手際は左右されないようで、彼の言うようにクロナの手にする懐中時計はほんの少し様子を変えたようだった。

「あ、ありがとうございます」

「ねえクロナ。仕事中にこんなこと言うのはダメなの、わかってるんだけど。一つだけお願いしてもいいかな?」

「……なあに?」

 嫌な予感がしたわけではないが念のため恐る恐る聞き返すと、とうとう泣き出したのか、悲壮感溢れる雰囲気を垂れ流しながら、ボリスは言う。

「仕事が終わったらかまってください……」

「り、了解……」

 なにをそこまで悲しむことがあるのだろうかと口から溢れる前に、クロナは懐中時計から顔を離す。

「大丈夫? 何かあったのかしら」

「い、いいえなんでもないの。許可は取れたから、気を取り直してご家族の様子を見てみましょう」

 メリーに余計な心配をかけさせるわけにはいかないと、クロナは極力表情をやわらげながら、竜頭を捻る。すると青い光が瞬き、見えない地面に現世の様子を映し出す。メリーは慌てて映像に駆け寄ると、それを覗き込んだ。

「……どう?」

「……」

 映像を共に覗きこんでいたクロナだったが、一応メリーに問うてみる。長い沈黙の間ずっと家族の様子を眺めていたメリーは、ため息をつきながらその顔をすっと上げた。

「ダメね。やっぱり伝えたい事は増えてしまうみたい」

「やっぱり……」

 クロナは改めて地面に目を向ける。そこに映しだされていたのは、子供たちを抱きしめ、わんわんと泣き続ける夫婦の姿であった。

 親しい命が失われるのは悲しいことだ。それが家族同然の存在であるならば尚更のこと。だが、随分と時間が経っているはずであるにもかかわらず、いまだ昨日のことのように号泣する人は――いるにしても、そうそう見るものではなかった。そんなつもりはないだろうが、メリーは哀れみを通り越して少し憤慨しているようだった。ちょっぴりクロナにもその気持ちがわかるような気がした。

「ちょっとお説教してあげないとだめよね」

「ええ……ええ、そうね……そのほうがいいのかも。ああ、でもねメリー、伝えた言葉は残らないの」

 クロナがコトノハにできることを説明しようとすると、メリーはどうやらわかっていたようで、ゆるゆると首を振る。

「それでもいいわ、気持ちが伝わるのならね。知ってるわ、あなたたちは心を届けるのがお仕事なんだもの、その後の心配はしなくてもいいのよ」

 そう柔らかく囁き、鼻先で優しくクロナの左手にふれるメリー。クロナは苦笑しながら、その頭を撫でた。

「やっぱりあなた、優しいわ」

「そんなことはないのだってば。できないことをやれといっても、あなたたちを困らせてしまうだけだわ」

「そうだけれど……」

 気分を落としそうになるクロナの言葉を、メリーはすかさず阻止する。

「あんまり深く考えてはいけないところよ、クロナちゃん。それよりも、コトノハさんはどうやって私のお説教を伝えてくれるの?」

「え、ええ……。方法はね、たくさんあるのだけれど。一番一般的なのは、お手紙かしら」

「私にはペンが使えないけれど、書いていただけるのかしら」

「いいえ、ペンはいらないの。この封筒に想いを込めてもらえたら、それが文字になるから」

 クロナは大きな鞄から深い緑色の封筒を取り出すと、メリーの視線の高さに合わせてしゃがみ込み、それを差し出す。

「まあ綺麗」

「急かしたりなんてしないから、ゆっくり考えてね」

「ふふ、ありがとう。でも大丈夫、伝えたい事は決まっているわ」

 メリーはクロナが手にしたままの封筒に軽く頭を押し付けると、静かに瞼を閉じる。すると封筒が熱を帯び、メリーの想いがつぎつぎと流れ込む。それと同時に、重量も増えていく。

「……」

 メリーは集中しているようであるし、重量制限があるわけでもないので声をかけることはしなかったが、これは相当の想いが込められているな、とクロナは感じていた。

 心を伝える際に手紙という媒体を選択した場合、封筒の中に込められた想いは相応の枚数の便箋に姿を変えるのだが、メリーの想いはすでに三十枚は超えているのではないかと推測される。少なくとも、弱い風では絶対に吹き飛ばないだろう。

 ――封筒が普通の紙製じゃなくてよかった……。

 そうであるならばとっくに端から破れてしまっているだろうことを考えて、クロナは摩訶不思議魔法テクノロジーに心から感謝する。

「……ふう、こんなものかしら」

 ようやくメリーが顔を上げた時にはすでに封筒の重さは倍近くになっており、クロナは彼女の家族がどんな反応をするのか想像しながら、それを大事に仕舞いこむ。

「お疲れ様。じゃあ、わたしは今からこれを届けに行くけれど……映像はそのままにしておくわね」

「ありがとう、クロナちゃん」

 メリーは一度にこりと微笑んだあと、黒い瞳でクロナのそれを覗き込んだ。

「どうしたの?」

 ゆるやかにしっぽを振り、メリーは言う。

「きっと、ここで私たち、お別れなんでしょう? なら、ちゃんと挨拶をしたいわ」

「そうね……そうよね」

 立ち上がり一歩踏み出そうとしていたクロナは、再び彼女に目線の高さを合わせる。

「クロナちゃん。ここに来てくれてありがとう。私の想いを届ける役目をあなたが引き受けてくれて、私はとても嬉しいわ。今日会って今日お別れする私たちだけれど、あなたは私の大切なお友達よ」

「ありがとう、メリー。またきっと、どこかで会いましょう。その時を、わたしはずっと待っているわ」

「ええ。きっと会えるわ。だから、その日まで、少しだけお別れね」

「「またね、私の大切な友人さん」」

 二人つぶやき、握手を交わす。メリーが笑顔を作るので、クロナも返そうとするが、思わず涙が零れ落ちた。

「あら、あらあら。またねって言ったのに。どうか泣かないで」

「ご、ごめんなさい、こんなつもりじゃ……」

 クロナの頬をぺろぺろと舐め、メリーは窘めるように言う。

「友人の、もう一度生まれるための旅立ちよ? 笑顔で見送ってくれなきゃいやよ」

「ええ、ええ。そうよね、泣くところじゃあ、ないわよね」

「ええ、どうか笑って」

 今度こそ、クロナは笑ってみせた。メリーは満足そうにしっぽを振る。

「それじゃあ、いってらっしゃい、クロナちゃん」

「いってきます、メリー。そこから見ていてね」

「ええ。ちゃんと見届けるわ」

「ありがとう」

 クロナは鞄を肩にかけ直すと、今度こそ、生者の世界へ移動するため、懐中時計を開く。青い光はクロナを包み、やがて、彼女ごと空白の区画から姿を消した。

 

 

 

 今は、冬だろうか。深く積もった雪で、辺りは真っ白に染め上げられていた。

 空白の区画とは違い、地面に降り立った感覚をしっかりと受け止め、クロナは現世――生者の世界へと辿り着く。

 手に持ったままの懐中時計を少し見つめたあと、彼女はそっと竜頭を押し込んだ。カチ、と軽い音をたてるそれとは裏腹に、今まで止めていた空白の区画の時間が再び流れ始める。もうまもなく、メリーは新たな世界へ旅立っていくだろう。

 彼女が見てくれている間に、仕事をしなければ。クロナは雪を踏みしめ、目的の場所へと向かう。依頼人の想いがこもったものを所持していれば、自然に宛てられた相手の居場所は把握できるので、道に迷うことはない。

 ――寒いな。

 魂だけの存在であるコトノハが寒さを感じるのは、生前の感覚の再現が成されているだけなのだが、流石に防寒具が欲しいと感じてしまう風景が、そこには広がっている。気休め程度に両の手をこすり合わせながら進んでいると、立派な煉瓦造りの家が見えてくる。そこがメリーの生家であり、クロナの目的地である。

 門から中を覗くと、もう日が沈むというのに部屋の中は照明がついていないのか、薄暗い。これはチャイムを鳴らしたところで人間が出てきてくれる確率は低そうだ。

 しかし予想に反して、クロナがチャイムを鳴らすと、玄関の扉はゆっくりと開いた。一瞬ホッとしたが、それもすぐに不安に変わる。

「……なんだい、君は」

 出てきたのは映像で見た男性――父親のアランであった。泣きはらした目と伸ばしっぱなしの髭が、痛ましいという言葉では軽いと思えるほど、酷い有様だった。映像で一度見ているとはいえ、実際に対面してみると今すぐにでも帰りたくなってしまう。きっと空白の区画で、メリーも彼のこんな姿を見て呆れていることだろう。

「こんな時間にすみません。わたしはクロナと言います。少しお話ししたいことがあるのですが、お時間をとっていただくことはできるでしょうか……」

「今人と話す気分ではないんだ。すまないが後日にしてくれないか」

 ――後日があるならそれでもいいのだけれど……。

 メリーが亡くなってから今の今まで泣き続けていたのだ、後日を待っていたら月を跨ぐどころか年さえ軽く跨いでしまいそうだ。

「今でないと、いけないお話なんです」

「……」

 アランは訝しげにクロナのことを見つめている。こういう時、コトノハの証明書のようなものがほしくなるクロナだったが、そもそも現世ではコトノハという存在は都市伝説のようなものでしかないので、それを差し出したところで信じてはもらえないだろうが。

「わたしはあなたたちご一家の大切な方から、伝言を頼まれてこちらに伺いました」

「……まあ、とりあえず入りなさい。外は寒い」

 クロナを信用したというよりは何もかもどうでもいいというふうに、アランは彼女を招いた。クロナは開かれた扉をこわごわくぐり、家の中へと入る。

「できれば、ご家族の方にも一緒にお話を聞いていただきたいのですが」

 いきなり押しかけて来て何を言うのか、という視線を向けられながら、クロナはできるだけ怪しくないように言葉を紡ぐ。

「もちろん、無理にとはいいません」

「……よくわからないな。君は一体誰から伝言を預かってきたんだ。それも、私達家族に」

 ――案外まともに会話ができてる。

 ――でも、メリーの名前を出したら、いったいどうなるかしら……。

 一抹の不安を感じながらも、クロナは正直に話す。

「到底信じられないでしょうから、ここから先は、夢物語だと思って聞いていただいて結構です。わたしは、あなたたちのご家族である、メリーさんから伝言を預かってきました」

「メリー……。メリーだと?」

 クロナが一家の愛犬の名を口にした途端、予想通りアランは顔色を変えた。馬鹿にするなと怒鳴られることを覚悟して身を引き締めたクロナだったが、アランは声を荒げる事無く、むしろ先程よりもしっかりとした声で言った。

「少し、待っていなさい。家族を呼んでくる」

「は、はい、ありがとうございま……」

 クロナが言い終わる前に、アランは大股で部屋を出て行ってしまった。妙な緊張感から一時的に開放されたクロナは盛大に息を吐き、懐中時計をお守りのようにギュッと握りしめた。

 生者の世界にいる時は、死者の世界と連絡が取れなくなり、助言も支援も受ける事ができなくなる。生者の世界と死者の世界を繋ぐということは、それだけで大層大掛かりなことであり、コトノハの魂を生者の世界で維持するために懐中時計の全ての機構が働いているからである。

 魂だけの存在というのは、生者の世界ではどうしても不安定なもの。もう自分たちはこちらの世界の住人ではないのだと魂に刻みこむことも、コトノハにとっては大切なことだ。その境界を曖昧にしてしまうと、いつか、どちらの世界にも戻れなくなってしまう。

 この世界で唯一死者の世界と確実に繋がっている懐中時計に静かに祈りを捧げていると、先程アランが出て行った扉が再びゆっくりと開き、子供たちを先頭にして、あとから夫婦も部屋の中へと足を踏み入れる。そして銘々思い思いの椅子に座ると、アランはクロナへと視線を向けた。

「さて、じゃあ、君が預かってきたという伝言を聞こうじゃないか」

 アランの言葉を合図に、一家はクロナに縋るような視線を送った。その瞳は、メリーに関わるものであれば嘘でもいいと言っているようだった。クロナは痛いほどの視線を浴びながら、鞄からメリーの想いが込められた封筒を取り出す。

「これを、どうぞ」

 パンパンに膨れ上がった封筒に一家は一瞬おかしな顔をしたが、何も言わずにアランはそれを受け取る。差出人の名前も宛て名もないそれをまじまじとみつめたあと、ゆっくりと封を切る。

 ――思ったより多いなぁ。

 取り出された便箋の厚みに目を丸くしているのはクロナだけではない。明らかに封筒の許容量を超えた便箋の束に、全員があっけにとられている。

「あまり気にせず、読んであげてください……」

 仕組みについて何も知らないクロナに言えるのはそれだけだったが、アランは言われるがまま折りたたまれた便箋を開いた。

 ゆっくりと視線を動かし、じっくりと目を凝らし、一枚、また一枚とアランは便箋を後ろに回していく。クロナには、その便箋がまっさらで何も書かれていないようにしか見えない。そう、死者の想いは、宛てられた人々にしか伝えることが出来ない。クロナには見えない文字は、されど、アランの目には確かに文面として見えていることだろう。

「あなた、メリーなの? それは本当に、メリーの言葉なの……?」

 最後の一枚を読み終え立ち尽くす夫の腕を、妻のベルが控えめに叩いた。アランは顔を背け眼鏡を外しながら、便箋の束を彼女へ手渡す。

「……お前たちも読みなさい。メリーから私達へ、確かにこれは、私達を一番近くで見てきた彼女の言葉だよ」

 袖で顔を拭うアランを見て、ベルは子供たちと一緒に便箋を覗き込む。やがて泣き出す彼女たちの姿を、クロナは何も言わずに見つめていた。

 長らくメリーの死を悲しみ続けていた家族は、またそのメリーの言葉によって、どうやら前を向く力を得たようだった。大声で泣きながらも、その顔には先程までの暗さはどこにもないように、クロナには思えた。

 これで、空白の区画から見守っている彼女も、安心して旅に出られるだろう。静かに笑みを浮かべながら、クロナは懐中時計を手にした。

「どこの誰だかわからないが、ようやく私達は彼女の死から立ち直ることができたようだ。本当に、感謝をしてもしきれるものではない。なにか、私達に返せることはないだろうか」

「いいえ、わたしはただ、自分のためにやっているだけ。お気持ちだけで十分です」

「そんなわけにはいかない、せめて――」

 

「どうしたのあなた、誰と話しているの?」

 愛しい妻の声に振り向くと、アランは自分のことを不思議そうな顔で眺める子供たちと目があった。慌てて自分が言葉を発していた方向に視線を戻してみるが、そこには誰もおらず、何の変哲もない見慣れた空間が広がっていた。

「……おかしいな、さっきまで誰かがそこにいたような気がしたんだが……」

 眼鏡をかけ直し首をかしげる夫の姿に可笑しそうに笑うベルも、ふと自分が手にしているものに気づく。

「あら?何かしらこれ……便箋? こんなに沢山、何のために持っていたのかしら……」

「それ、捨てちゃダメだよ」

「メリーのお手紙よ、ママ!」

「メリーの……?」

 二年前亡くなった愛犬の名前を出す子供たちに、夢でも見たのかと思いかけたベルだったが、もう一度その便箋に視線を落とすと、なぜだか自分自身も、そんなような気がしてならないのだった。

「ベル、その子たちの言うように、それは大事に仕舞っておきなさい」

「……そうね、なんだか……とても暖かいの。不思議ね……」

 胸の前で便箋を抱え、ベルはその暖かさに一筋涙を流した。

 

 

 

「メリー、あなたって凄いわ。一体どんな言葉で、あの人達を立ち直らせたのかしら」

 空白の区画へ戻ったクロナは、自らが地面に投影させた映像で一家の一部始終を見ながら、すでにもうこの世界にはいない友人に語りかけた。

「あなたの気持ち、ちゃんとしっかり届いたわ。どうか次の旅でも、幸せになってね」

 祈るように呟くと、クロナはどこから摘んできたのか、白く、紅色の班模様のついた花を、そっと白い世界に向かって差し出した。僅かに宙を舞ったその花は、やがて薄紅色の光となって、辺りの白に溶け込んでいった。これが彼女なりの区切りの付け方であり、もう一人別の少女の、コトノハとしての仕事でもある。

 心を預かり、受け渡す。この流れを、コトノハたちは続けてゆく。幾千の出会いと別れを繰り返し、いつか、次の世界へ旅立つことが許される、その日まで。

 もう一度懐中時計を開き、ようやく彼女は本来自分がいるべき場所、時計塔の世界へと舞い戻る。ちょっとした休憩所となっている広場に降り立つと、すぐさま時計台の影から淡い桃色の髪を持つ少女が全速力で駆けて来るのが見えた。

「く、クロナ! ちょっと、ねえ!」

 走りながら喋るものだから、舌を噛みそうになっている。いろいろと不器用過ぎる少女の姿を見つめながら、クロナは彼女がこちらに辿り着くのを待つ。

「走らなくても、歩いてくればいいじゃない」

「だ、だって! し、心配、でしょう……!」

 クロナの元へ辿り着くやいなや、座り込んでぜいぜいと必死に息をする少女を見て、クロナは苦笑する。

「何を心配することがあるの。あなたの魔法、失敗したことなんて一度もないじゃない。大丈夫、ちゃんと届けたわ。あの花、なんていう」

「ユキノシタ!」

 なんていう名前なの、とクロナが問うよりも先に、桃髪の少女は真っ赤な顔のまま叫んだ。

「花言葉は深い愛情。いろいろあるけど、たぶんあの子はこの言葉を持って生まれてきたわ。……たぶん」

「あなたが言うなら、きっとそうなのね。ええ、そのとおりだと思う」

 依頼人を思い浮かべ笑うクロナに、少女はふてくされたような表情を浮かべて、その顔をじっと見る。

「な、なあに」

「依頼人、どんなひとだったの」

「メリーという、白い大きな犬よ。すごく綺麗で、とても優しい女の子だったわ。なあに? わたしの話、聞きたい?」

「クロナがどうしても話したいっていうんなら……聞いてあげなくもないけど」

 ぶつぶつごにょごにょと話す、自分より年上の少女を見て笑いそうになりながら、クロナは手を差し出すのだった。

「じゃあ、わたしのどうしても話したいお話、聞いてくれる? 大事な大事な、友人の話」

「……私が嫉妬しそうな話?」

「どうしてそこでそうなるの!」

 他愛もない話をしながらも、すすり泣くボリスの声を忘れていなかったクロナは、少女とともに彼の元へと向かうのだった。