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優しき花の思い出

-begone days-

 その少女は、時計塔から少し離れたところにある家の庭で、一人ぽつんと座り込んでいた。

 いつからいたのかは、おそらくこの街を管理するボリスならばわかるだろうが、生憎、彼は今珍しく外出中であった。助けてくれる人間は他にはいない。

「困ったね……」

 庭から少し距離を置いた場所で、家の主、そして庭の主であるギルティは頭を抱えた。

 少し長めの仕事を終わらせ家に帰ると、庭に知らない少女の姿が見えた。何を迷うこともない。たった一言、ここは私の家だよと伝えればいいだけの話だ。そして、ここには近付かないでくれ、と。それと、これの、二言だけ。ごく普通の人間ならば容易く言える二言に、ギルティは悩んでいた。

 彼女は、他人が苦手である。俗に言われる人見知りだとか、引っ込み思案だとか、そのような繊細な理由ではない。ただ単に、彼女はコミュニケーションをとることに不器用なのである。

 それでも、彼女はコトノハの一員であった。コトノハは本来心を受け渡し、業を手放すことが目的なのだから、コミュニケーションの取り方に多少難があれど務まるのだ。なので、彼女はコミュニケーションについての訓練はされておらず、ここに来てから今までの間、安定した【人付き合いの下手さ】を引きずってきているのだ。

 物陰からこっそりと庭の様子を窺う。少女は微動だにしないまま、ずっと同じ場所に視線を落とし続けていた。後ろを通れば気づくだろうか。気づかれたところで、あの家は自分のものなのだから、正々堂々と通ってしまえばいいのだ。

 ――あとでガーランドに知らせたら良いかね。

 いったん家の中に必要なものを取りに行き、その後すぐに再びこの場所を離れる算段をしたギルティは、なるべく足音をたてぬよう、そろそろと庭へと進入する。徐々に少女との距離が近づき、早足で背後を通過、家の扉を開け、閉める。手作りの煉瓦道をヒールで歩いたために足音は僅かでも響いただろうが、少女がこちらを気にする様子は窺えなかった。

 気づいていないのか、それとも気にも留めていないのか。そのどちらであれ、ギルティには幸いだった。

 急いで服を着替え、懐中時計を鞄に仕舞い込むと、裏口から外へ。

 それから3日ほど、ギルティは街の各所を転々とした。次に家に戻ったのは、ボリスに呼び出され、件の少女がまだ自身の家の庭にいることを知らされた時だった。

 

「……」

 以前と同じように、ギルティは物陰から少女の姿を観察する。桃色のくせっ毛が地面に触れることも厭わずぺったりと座り、紫色の瞳を下に向けている。

 庭の花を眺めているのだろうか。それとも、ただ単に俯き、物思いに耽っているのだろうか。

 そもそも、大切な事を聞きそびれてしまった。ギルティには、少女が単なるこの世界の大多数の人間と同等の魂なのか、それとも業を手放すべく、コトノハになるべき魂なのかがわからない。もちろん彼女には、見ただけでそれが判断できる特殊能力などあるはずもなく。しぶしぶ、少女のそばへ歩み寄るのだった。芝生を踏み分ける音に一瞬少女がこちらを見たような気がしたが、それ以上の反応はない。

「ねえ、ちょっとアンタ」

 声をかけてみるが、少女はじっと下を向いている。これだけ近づいて聞こえていないということはありえない。となると無視を決め込まれているということになり、ギルティは早々に諦め、その場に腰を下ろす。

「勘弁しとくれよ……なんで自分の家で遠慮しなきゃならないんだ」

「ここ、あんたの家だったの? なら早くそう言いなさいよ。どっか行ってほしいんでしょ?」

 独り言として呟いた言葉を少女に拾われ、ギルティは驚く。

「なんだいやっぱり気づいてたんじゃないか」

「前はあんまりにもそろそろ通ってたから、空き巣だと思ってた」

「空き……!? し、失礼な子だね……」

 予想外の物言いに目を剥き反論しようとするギルティをよそに、少女は髪についた土を払いながら立ち上がった。思っていたよりも身長は高く、スラリとした立ち姿をしている。

「じゃあ私行くから。さよなら」

「ちょ、ちょっと待ちな。行くって事は、帰る場所があるってことかい?」

 問うと、少女は少しムッとした顔で答える。

「帰る場所……? は、そんなところあるわけないじゃない。だって私、もう死んでるのよ?」

 半ば自棄な調子で放たれた言葉に、ギルティは彼女がその他大多数の魂とは違うということに気づく。

 彼女は、自分が死んでいることを知っている。それはすなわち――コトノハになるべき魂だということ。

「気が変わった。どこにもいかなくていいよ、ここに居な」

「何よいきなり。さっきまで嫌そうな顔でこっち見てたくせに」

「それはアンタの正体がわからないし、しかも喋りもしなかったからだよ! 得体の知れないものはいやなんだよアタシは。あと単純に人が苦手なこともある」

「あっそ」

 そっけない返事をするシオンを下から見上げると、ギルティはにやりと笑う。

「でも、アンタは存外喋るじゃないか。その調子だとまだ誰もアンタを時計塔へは連れて行ってないんだろ? ものはついでだ、時計塔へ行く前に、この世界のことを教えといてやろうかね」

「死んだあとのことなんてどうでもいいわよ」

「死んだあとだって言っても、まだこうやって意識はあるだろ? 死後、つまり死んだあとにも続きはあるんだよ。まあ、今自分がいる場所について何も知らないっていうのは心細いだろ」

 突っ立ったまま黙っているシオンに座るように言うと、思いの外素直に先程と同じ場所へ腰を下ろした。ギルティの言うように、何も知らないことに対しての怯えがあるようだ。ただでさえ、誰もが迷子の子猫のような街なのだから。

 ギルティは対話を苦手とし人心についても疎いが、その代わりに説明や一方的な説得にはコトノハ一長けていると言っても過言ではない。そのためそういった技能が必要とされる時は彼女が出向くのであった。

 順にこの世界のこと、コトノハのこと、宝石のこと、などを説明しているうちに、少女もようやく人心地がついたのか、質問などを挟んでくるようになった。全てを話し終わる頃には、彼女は自身の境遇について話してくれるほど、ギルティに対して心を許していた。

「――そうかい、そこまではっきり覚えてるなんて、さぞ辛いだろうねぇ……」

「別に? 結果的にあいつから離れられたんだからそれでいいわよ。人に話したら、なんかすっきりしたわ」

「そんなもんかねぇ……」

 言葉の通り、彼女の表情は初めて見た時よりも幾分和らいでいるように見えた。

 大きく息を吐きながら芝生に寝転がる少女をみて、ギルティはふと思い出す。

「そういえばアンタ、名前はなんていうんだい? それだけ覚えてるんだ、自分の名前もわかるんだろ?」

「ああ、まあ……覚えてるけど。でも、あいつのつけた名前でこれ以上呼ばれたくないわ」

「ふーむ、それは仕方ないね。でもいつまでもアンタじゃねえ……」

 考えあぐねたギルティはきょろきょろと辺りを見回し始める。なにも目についたものを片っ端から人名に変換する気はなかったが、何かヒントはないものかと考えたのだった。

「そうだ、アンタずっと下を向いてたけど、もしかして花を見てたのかい?」

 唐突な質問に、少女は多少うろたえながらも答える。

「そ、そうだけど」

「お気に入りはあるかい」

「お気に入りというか……あれとか、綺麗だと思うけど……」

 少女の指差す花を見て、ギルティは嬉しそうに声を上げた。

「だろう!?」

「わ! な、なによ突然大きな声出して」

「あれはシオンっていうんだよ。いやね、最近育てた中では一番綺麗に咲いてくれてね、人にそう言ってもらえると嬉しいもんだね!」

 年甲斐も無くはしゃぐギルティに少女は生温い視線を送る。

「うわ、おばさんって好きなものの話になると急に饒舌になるタイプの人なんだ」

「うるさいねぇ、嬉しいもんを嬉しいって言って何が悪いんだい。よし、それじゃあアンタの名前は今からシオンってことにしよう。いい名前じゃないか」

 ばしばしと背中を叩かれ、シオンと名付けられた少女は声を荒げる。

「名前に文句はないけど、おばさんの付け方が雑!」

「気に入ったんなら良いじゃないか! あとアタシの事をおばさんって呼ぶのはやめな」

「だって私、あんたの名前まだ知らないわよ」

 シオンに指摘され、ギルティははっとする。シオンにかまけて、自分の事を説明するのをすっかり忘れていたのだった。

 ギルティは一度考えるような素振りを見せたが、すぐにニッカリと笑って、溌溂とした声で言った。

「アタシのことはギルティと呼びな!」

「ギルティ? 人につけていい名前なの、それ」

「いいんだよ意味なんて考えなくても!」

「わかったわよ……」

 鬱陶しそうに返事をするシオンだったが、その表情には薄っすらと笑みが浮かんでいた。人とこんなに話をしたのは初めてかもしれない、と語ってみせる彼女は、されどその凄惨な人生を、先程彼女自身が言ったようにさほど気にしてはいないようだった。

 これなら、早いうちにこの世界から旅立たせることが出来るかもしれない。ギルティはそんな小さな希望を抱きながら、彼女をコトノハ見習いに就任させるべく、ボリスの元へと連れ行くのであった。

 

「すまないね、忙しいとこ呼びつけて」

「いや、僕の方こそ。彼女を任せっきりにしてしまって」

「まあいいさ。アタシが人を苦手としてると言ったって、まあアンタよりはマシだからね」

 ここの所忙しなく働いており心身ともに疲弊していたボリスだったが、ギルティの後ろに隠れているシオンの姿を一目見、嬉しそうに笑った。

「来てくれてありがとう、シオン」

「……」

「ほら、ちゃんと挨拶をおしよ。お世話になる人だよ」

「……よろしく、お願いします」

 少女から明らかに警戒心を抱かれていることに多少ショックを受けつつも、ボリスは笑顔を保ったまま椅子に座り直す。

「ん、んん。僕はボリス・ガーランド。コトノハの司令塔とかそういうことをしているんだけど、気軽に接してくれればいいからね」

「あらそう。ならそうさせてもらうわ」

「アンタねぇ……まあいいか」

 ころりと音がしそうな態度の変わり具合に呆れを感じるギルティだったが、彼女にとってそのほうがやりやすいのなら、としぶしぶ許容する。ボリスもあまり上下関係を作りたくない性格の持ち主であるので、彼女の野放図な振る舞いに憤ることはないだろう。

 ギルティが思う通りボリスが気を悪くする様子はなく、よし、と手を打つと、彼女のためだけに用意された懐中時計を化粧箱から取り出し、手渡す。あまり馴染みがないものなのか、シオンは懐中時計をじっと見つめたあと、裏返したり開いてみたりと、物珍しげに眺める。

「これ、何?」

「持ち運びできる小さな時計だよ。君がコトノハだという証明になる大切なものさ」

「へえ……」

 気に入ったのかとりあえず首から下げてみる少女を見て、ボリスは嬉しそうにしている。まさに製作者として冥利に尽きる、といったところだろうか。

「それじゃあ、ちょっとだけまってね。……クロナ、聞こえるかい」

 突然空中に向かって話し始めたボリスに、シオンは何か言いたげな顔をしている。しかしギルティの顔を見ると平然としているため、前かがみになりながらもなんとかその場に留まる。

 二、三の会話を終えると、ボリスは軽く指を鳴らす。するとすぐ隣の空間から、瞬間的に小さな少女が現れたのだった。

「ボリス、何のご用……」

「クロナー! 久し振りだね、会いたかったよー!」

「わ、わ!」

 突然ボリスに抱きつかれ困惑するが、久々に見る彼の顔に少しホッとしたのも束の間。にやにやと笑うギルティに気がつくと、クロナは慌ててボリスから離れ、帽子をとって顔を隠す。

「ひ、人がいるなら先に言っておいてよ……!」

「あっはっは! 相変わらず仲が良いねぇ、アンタ達は」

「ぎ、ギルティさん……こんにちは……」

 斜め四十五度を向いて恥じる彼女を微笑ましく思いながら、ギルティは未だ目を白黒させているシオンをクロナの前へと押し出す。

「クロナ、この子は新しくコトノハになる子だよ。シオンっていうんだけど……シオン、しっかりおし!」

「はっ!」

 強めに背中を叩かれ、シオンはようやく正気に戻る。が、目の前にいるクロナの顔を見るなり、すぐにまた固まってしまう。

「……え? なに、どうしたの……?」

「か」

「か?」

「かわいい……」

「えっ、えっ?」

 こちらを睨みながら謎の発言をするシオンに、今度はクロナが固まる番だった。あわあわとギルティに助けを求めると、ギルティは溜息をついてもう一度シオンの背中を叩く。

「こらシオン! クロナにガンを飛ばすのはやめな!」

「わっ! ちょ、そう何度も叩かないでくれる!?」

「アンタがぬぼーっとしてるのが悪いんじゃないか。すまないねクロナ、こんな子だけど仲良くしてやっておくれ」

 ギルティにそう言われ、クロナは少しの間考えるような素振りを見せるが、すぐに納得がいったようにボリスに目配せをする。彼女の視線を受けボリスは頷く。

 一度軽く深呼吸をし、帽子をきちんとかぶり直すと、クロナはシオンに向き直り小さくお辞儀をする。

「はじめまして、わたしはクロナ・エペ・トランジーヤ。あなたがコトノハのお仕事に慣れるまで、あなたと一緒に行動します。よろしくね」

「え、うそ。ほんとに?」

 妙に身を乗り出して問うシオンに、クロナは戸惑いながらも答える。

「え、ええ。と言っても、見習いの人のお世話をするのは初めてだから、うまく出来るかはわからないけれど。わたし、やっぱり頼りなく見えるかしら……」

「え、あ、違」

 自身の仏頂面を不満ととられたのが彼女にとっては心外だったのか、少ない言葉のボキャブラリーでなんとかそれが誤解だと伝える。クロナに不安そうな顔で見上げられ何故か顔を赤くしていたが、おそらくは緊張によるものだろう。

「あの、えっと、そのッ……よ、よろし、く」

「至らない所があれば教えてね。わたし、出来る限り、頑張るから」

 

 クロナに挨拶を終え、一度ギルティの家に戻ってから――新居が決まるまでは彼女の家で過ごすことにしたようだ――ずっとにやけをかみ殺しているような気持ちの悪い笑顔を浮かべていたシオンだったが、次の日からは早速、コトノハとしての仕事を学び始める事となる。

 多くは力の使い方やその制約、こちらの世界とあちらの世界の繋がりや、その狭間の世界のことなど、情報を叩き込む勉強となるが、意外と頭はよいのかすぐにこの世界に馴染んでいった。

 唯一、コトノハとなった時、それぞれ固有のものとして使えるようになる魔法が発覚しないままだったが、時間が経てばそのうちわかるだろうと無理に開花させることはしないまま時間は過ぎてゆき、気がつけば彼女が一人のコトノハとして自立するための試験の日がもう目前にまで迫っていた。

 

「いよいよ明日だね。心の準備はできてるかい?」

 真剣な瞳で図鑑を読んでいるシオンにコーヒーを差し出しながら静かに問いかけると、彼女はにやりと笑ってそれを受け取った。

「私を誰だと思ってるのよ。当然でしょ。クロナに手取り足取り教えてもらったんだから、万が一試験に落ちようものならあの子に顔向けできないわ」

「おやおや、大した自信だねぇ。クロナはアンタが失敗したら、アンタにどうこう言う前に自分を責め始めるからね。そうならないためにも頑張りな」

「……が、頑張る……」

 あまり調子に乗らせないよう適度にプレッシャーを与えはするが、シオンの言うとおり、あの真面目なクロナから丁寧に教育された、しかもこれまでの成績も良好な彼女が失敗する確率は実に低い。それにこの試験はあくまでも一人で行動できるかどうかを決める試験であって、万が一合格できなかったとしても、その時は今現在のように二人で行動することになるだけだ。コトノハという職業は彼女たちの因果を振り払うために用意されたものなのだから、コトノハにならなくてはいけない魂を故意にコトノハにしない、ということはありえない。

「ちなみに失格した場合に組まされるコトノハはクロナじゃないから、わざと失格してもダメだからね」

「わ、わかってるわよ! ……クロナと一緒じゃなくなるのはアレだけど……合格したら喜んでくれるわよね」

「なんでか、あの子はアンタにとってものすごい原動力になってるんだねぇ。でも、第一は自分のためなんだからね」

「ええそうよ。自分の因果を払うそのために、人の手を煩わせるわけにはいかない」

 ちゃんと理解してるわ、とシオンは涼しい顔で言ってのける。それならもう、ギルティから彼女へ言ってやれることはなにもない。

「でも」

 先程の言葉に付け加えるように、シオンが口を開く。

「背負わされた荷物をおろすために、背負わされた方が頑張らなきゃいけないなんて、ほんとおかしいと思うけどね」

「それは……まあ、そうだね。誰もが一度は考えることさ。でも、他の人間に下ろすことが事ができる荷物なら、ガーランドは最初からそうしてるのさ。手助けしかできないことを、あの子はいつも悔やんでいるからね」

 不意に彼の名前を出すと、シオンは顔の前で手をブンブンと振って否定する。

「い、いや、あいつの事を責めたいわけじゃ……! 文句を言ったつもりはないのよ。それしか方法がないからそうしてるんだってわかってる。なんとなく言っただけだから」

 あえて文句を言うならこの世界にかしら、とシオンは笑う。以前死んだあとのことなんてどうでもいい、とギルティに言っていたシオンだったが、今では少し考えが変わったようだ。

 ほんの一、二年前、ギルティはボリスを相手に似た質問を投げかけたことがあった。もちろん彼女もシオンと同じく、ボリスやこの世界に対しての文句や不満は孕まない純粋な疑問として、だ。

 その質問をされた時のボリスの顔は、今では一生忘れられないものとなっていた。正直その瞬間まではギルティもボリスのことを頼りないやつだと甘く見ていたのだが、その顔を見て考えを改めたのだった。しかしボリスは多くは語らず、結局その時彼が言ったのは、たった一言。僕もそう思うよ、という言葉だけだった。

 ――思えば、あの頃が境だったかね……。

 少し思考を逸れかけるのを、突然頭に響いた声によって阻止される。その声は、今まさに自らの思考の中にいた人物、ボリスのものだった。

「……ガーランド? どうしたんだい、こんな時間に。……え? そんなまさか。本当かい?」

「どうしたの?」

 突然深刻な顔で話し始めるギルティを見て、シオンは訝しげな声を上げる。

「い、いや……」

 ギルティはうっかり口にしかけたが、ボリスが話すその内容は、今のシオンには話すべきではないと考え、言葉を濁す。

「ちょっとガーランドから急な用を頼まれちまった。もしかしたら朝まで戻れないかも知れないけど、試験はしっかり受けるんだよ」

「え? ああ、うん、わかった……」

「大したことじゃないよ、心配はいらないさ。早く終わればちゃんと立ち会うからね」

 シオンの髪をわしわしと撫でると、ギルティはそのまま急ぎ足で家を出てゆく。シオンはしばらくギルティが出て行った扉の方を見つめていたが、やがてまた分厚い図鑑を手にすると、黙々と読書を再開するのだった。

 

 

 

 翌朝、いつもより早く起床したシオンは、クロナの部屋を訪ねていた。道中でばったりギルティに会うことを少し期待したが、見渡す街の中に彼女の姿を見つけることはできなかった。

 クロナの部屋の前まで来ると、シオンは大きく深呼吸をする。呼び鈴のたぐいは存在しないため、軽くノックを二、三回。しばらく置いて、扉の向こうから軽い足音がパタパタと近づいてくる。

「はい、どなた?」

 ゆっくりと扉が開くと、まだ部屋着のままのクロナがひょっこりと顔を出し、珍しい客人に目を丸くさせて――すぐに、慌てて懐中時計を開く。

「ご、ごめんなさい! もうそんな時間だったかしら……!」

「あ、いや、違うの! 早く準備しすぎたから、ちょっと寄ってみただけで!」

「そうなの……よかった」

「め、迷惑、だった?」

 おどおどと前かがみになって顔色を窺うシオンに、クロナは可笑しそうに笑う。

「そんなこと、全然。まだ時間もあるし、おもてなしの用意はないけれど、それでもよかったらどうぞあがっていって」

「お、お邪魔します」

 まだこの部屋に住み始めてから一年も経過していないため、あまりクロナらしい、女の子らしい内装ではないが、ところどころに置かれている私物にはやはり少女らしさが垣間見える。同世代の女の子の部屋を訪ねたことがなかったシオンは、自分からここへ来たにもかかわらず、今にも逃げ出しそうなほどの緊張を抱えて硬直していた。

 そんな彼女の挙動を今日の試験への不安だと勘違いしたクロナは、シオンに差し出すホットミルクに砂糖を少しだけ多めに入れながら話しかける。

「え、ええと……そんなに緊張しなくても、あなたなら大丈夫だと思うわ」

「あ、う、うん……ありがとう……」

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

 クロナからカップを受け取り口をつけると、甘い味が広がり、幾分か緊張がほぐれたような気分になる。ほっと息を吐き出し、もう一口。

 隣で同じように、されど上品にくいくいとホットミルクを飲んでいるクロナを盗み見ていると、それに気づいたクロナが顔を上げる。

「……口に合わなかったかしら……?」

「えっ!? いや、そんなことは全く!」

「そう……? さっきからすごく顔を見られているような気がするのだけど、もしかして何かついていたりするのかしらっ……」

 照れながら顔をぺたぺたと触るクロナだが、あいにく凝視されている理由はそれではないために、とくにこれといったものには触れることなく、消化不良気味にうなだれる。

 無意味に恥ずかしがらせてしまった事を心の中で謝罪し、下手に口を開けばまた余計な事を言ってしまいそうだったシオンは、無言のままカップに口をつけた。

 ――おいしい。

 ――確かに緊張はほぐれつつあるはずなのにも関わらず、なんなのだろう、この胸騒ぎは。

 ――なにか、嫌な予感がする。

「ねえクロナ。ギルティのこと、なにか聞いてる?」

「ギルティさんのこと? いいえ、とくには……昨日の夜に、シオンをよろしくねって伝えられて、それからはなにも……」

「そう……クロナもギルティがどこに行ったのかは聞かされてないのね」

 母親同等の存在を想い難しい顔をするシオンにつられ、クロナも兄のような存在であるボリスの事を考える。

「ボリスもあのあとから連絡がとれなくなってしまったの。二人がいない状態での試験はやっぱり少し不安ね……あっ! ごめんなさい、わたしが不安がってどうするの」

「あいつに用事を頼まれたってことは、あいつも忙しいのかもね。でも試験ってコトノハの業務をとりあえず一度やってみるだけなんでしょ? ならクロナがいれば大丈夫よ。そのことは……全然、心配してない」

 シオンはクロナに誤解を与えないよう目を見てしっかりと伝えると、クロナも強く頷き、ギュッと両の手を握りしめた。

 時計を見ると、そろそろクロナの部屋を出てもいい頃合いとなっていた。シオンは常々、クロナの膨れ上がった鞄に何が入っているのか気になっていたが、荷造りを観察していると、彼女の鞄にはいつでも【遠足セット】――要するに、ティッシュにハンカチ、ティーセット、どこで使うのかもわからないレジャーシート、そしてお菓子の類が詰め込まれていたのだった。レジャーシートの使いみちを問うと、クロナは照れながら「ギルティさんのお庭、とか」と言う。それなら行くと決めた時に持っていけばよいのでは、と思うシオンだったが、クロナの笑顔があまりにも無邪気な少女そのものだったため、あえて指摘はしなかった。

 

 

 

「それじゃあ、まずはここで依頼人を探すところから始めましょうか。心を落ち着けて、聞き逃さないように」

「ええ」

 空白の区画へと移動したクロナとシオンは、早速というように試験を開始していた。本来ならば一部始終をボリスが見守り、受験者が一人で行動出来るかを判断するのだが、その本人が不在のため、クロナが事細かに記録する事となった。

 緊張はない。未だに心にざわめきを感じるが、それは単なる杞憂だ。魂の鼓動を濁す雑音には成り得ない。シオンは大きく深呼吸をし、懐中時計を揺らし始める。

 

 tick...tack...

 tick...tack...

 tick...tack...

 

 ――なにかおかしい。

 調べは確かに聞こえている。だけれど、探している音が見つからない。

 見つからないということは、探し方がいけないのか、それともすでにこの世界に魂が存在しないかのどちらかになる。しかし、魂が兆候もなく突然消えるという事例はこれまでにないので、後者である可能性は限りなく低いといえるだろう。

「……だめ。ちょっとたんま」

 自分で思っている以上に心が乱れているのかと考え、シオンは一度捜索を中断し、額に指を添えて再度集中する。が、三度繰り返しても、合致する音が返ってくることはなかった。

「ごめんなさい、見つからない……」

「気を落とさないで。伝達ミスがあったのかもしれないもの。わたしが代わりに探してみるわね」

 クロナはそう言うと、懐中時計の紐を長めに持ち、振るのではなく円を描くように回す。これは特定の一つを探すのではなく、似た音を大まかにかき集めるための動作である。

 長い沈黙が続いたが、ふとクロナが口を開いた。

「見つけた……少し違う音が混ざっているけれど、それを取り除けば同じになるわ。シオン、あなたも確認してくれる?」

「え、ええ」

 クロナに言われ、シオンは急いで彼女が掴んでいる音を同期させる。彼女の言うとおり、余計なものを省けば同じ音として認識できる。

 しかし、とシオンは考える。なぜ余計な音が混じっているのか。クロナにもその雑音が聞こえているということは、少なくともシオンの心が生み出したものではないということは確かである。同じことを考えているのか、クロナも少し表情を曇らせている。

「ううん……気になるけれど、原因を突き止めるのはあとにしましょう。まずは依頼人の想いを受け取らなきゃ」

「……そうね」

 一度目を閉じ、開く。すると目の前に依頼人の姿が浮かび上がる。

「貴方が……依頼人?」

 シオンが話しかけるも、依頼人である青年は口を開くことはなく、ただじっと彼女の瞳を覗き込んでいる。その姿は時折大きく歪み、本質を捉えることを妨害する。

 ――どうして?

 クロナは呆然とその姿を眺める。

 ――この区画は、休息を終えた魂が集まる場所。

 ――なのになぜ、この魂は歪んでしまっているの?

 なぜ、どうして。わからない。空振りする思考で懸命にそのわけを探そうとするも、答えをくれるものはいない。

 突然、青年がシオンの手を掴んだ。驚いたシオンが振りほどこうとすると、その前に彼の姿は煙のように掻き消えてしまう。ぽかんとするシオンに駆け寄ったクロナは、掴まれた腕にシオンがあらかじめ持っていた封筒に、封がされていることに気づく。

「し、シオン、それ」

「えっ!? あ、え……なんで……?」

「……シオン、一度ここから出ましょう」

 クロナの提案に強く頷き、シオンは早々と懐中時計を開き離脱する。彼女が無事に抜け出せたことを確認すると、クロナも続いて懐中時計を開く。その刹那依頼人の姿を探したが、もう、この区画に存在を確認することは出来なかった。

 

 空白の区画から再び時計塔の元へと帰還した二人は、行く先々で人の姿が消えていることに気付き、顔を見合わせた。夜は閑散としている広場も、昼間は人で溢れかえり騒がしいほどである。そして先程まではそうであったにも関わらず、今は人っ子一人見当たらない。変わらぬ宝石の灯りだけが煌煌と輝いていることが、かえって不自然さを演出している。

「何かあったのかしら……」

「……」

 しばらくその場に留まってみるが、やはり誰も通る者はおらず、二人は徐々に焦り始める。クロナは無意識にシオンの手を握りしめるが、今はそんなことにかまけている場合ではなかった。

「なんでこんな時に大人がいないのよ……!」

 広場の時計台の針は止まっておらず、時計塔に何らかの不具合があったわけではないようだ。しかしそれだけでは安心するに事足りない。せめて誰かに自分たちがここにいることを伝えることができればいいのだが、願いに反して誰にも連絡がつかない。

「どうしよう……」

 クロナがこれからの行動を相談しようとシオンの方を見ると、彼女はいつの間にか封がされた先程の封筒に視線を落としていた。

「どうしたの?」

 問うと、狼狽した声が返ってくる。

「く、クロナ……これって、なんかこう、宛先が自然とわかるとか……そういうのだったわよね?」

「え、ええ……そうだけれど……」

「ちょっとこれ、クロナが持ってみて」

 言われるがままシオンから封筒を受け取ると、クロナの心にじんわりと情報が染み渡っていく。そして、その封筒の差出人が宛てた人物へ、心が導く。

「これは……」

 クロナは一度、封筒をじっと見つめる。感覚が狂ったわけでないのならば、クロナがこの手紙の宛先として感じ取ったのは、今隣に立っている少女、シオンであった。封筒とシオンを交互に見ると、シオンもなんとも言えない表情で頷く。どうやら彼女にも、宛先が自分であると感じられたようだった。

 しかし、珍しくはあれど、前例がないわけではない。消えゆくその瞬間に、世話になったコトノハへの感謝の気持ちを募らせる魂は稀にいる。そしてその時は、その気持ちが手紙の内容として、コトノハに宛てられる。クロナも一度受け取ったことがあるため、これが普段と変わりない状況であれば、ありがたく手紙を受け取っているところだろう。だが、二人はこの手紙を受取る際に、少々奇妙な体験をしている。その手紙が自身に宛てられているとなると、その事実を受け入れることに僅かに躊躇してしまうのも無理はない。

「あ、開けていいの? これ……」

「宛先があなたなんだもの、開けてはいけないなんてことは、ないけれど……。ううん、でも、開けてみたほうがいいわ。ちゃんと宛先がある手紙なんだもの」

「そ、そうね……」

 シオンは固唾を飲み込み、封筒の端に切り込みを入れる。中からそっと取り出されたのは、一枚の便箋だった。いや、便箋というよりも、一筆箋といったところだろうか。その大きさに合わせるかのように、そこに書かれたメッセージも、また一言。

 たった一言、「逃げて」、と。

「……」

 悪い予感がした。そのメッセージにではなく、この手紙の差出人が、一体なんのためにこんな警告を自分にするのか、シオンはそれが気になった。自分にそんな警告をする者に、彼女には心当たりがなかった。そう、彼女には、自分を心配して言葉をくれるような優しい隣人はいなかった。ただ一人、いや、ただ一匹の心当たりがあるとすれば、それは。

「うそ……でしょ……?」

 封筒を裏返して硬直してしまったシオンを心配してクロナが声をかける。ゆっくりと顔をあげたシオンは、今までのどんな時よりも悲痛な表情をしており、瞳からは涙が溢れていた。

「クロナ……どうしよう、私、どうしたらいいの。この手紙、私の……私のことを守ろうとしてくれた、大事な家族からなのよ。……あの子、逃げて、って」

「じゃあ、それは……」

「あの子、きっと殺されたんだわ。あいつが……私が大人しくしてたら何もしないって言ったのに! あいつが、あいつが……!!」

 激高するシオンの手に握られた手紙からはすでに文字は消えているらしく、感情を読み取ることはできない。

 クロナはこの手紙を受け取ろうとしていた時の事を鮮明に思い出す。青年の姿が、大きく歪むその瞬間。

 ――ちゃんとした姿で居られないほど、怒りか、悲しみで魂を歪めてしまっていたのかも……。

「シオン、不躾な事を言うけれど、許さなくてもいいわ。あなたがこの世界に来ることになった原因を教えてほしいの」

「え……それって、死ぬ時のこと、話せって言ってるの……?」

 改めて言葉にされ、クロナはギュッと唇を噛み締めた。クロナは、シオンは生前の記憶が鮮明に残っているのだと、ギルティから聞かされていた。誰であろうと、自身が死んだ時の事など話したくはないだろう。

「ごめんなさい、でも、あなたのことをなにも知らないままじゃあ、あなたを何から守ればいいのかさえ、わたしにはわからないの」

「守るって……」

「だって、あなたを守ろうとした人が、あなたに逃げてと言っているんだもの。何か危険が迫っているなら、わたしは守りたいの。その人がそう思ったように」

 わたしの事は嫌いになってもいいわ、と言うクロナに、シオンは狼狽えた。が、それは彼女に酷い事を聞かれたからではなく、シオンからしてみれば、そんなことは彼女を嫌いになる理由にかすりもしないからだった。ギルティにも言ったように、シオンは自身の死の記憶を辛いものとはしていないのだ。だからこそ、クロナがとても辛そうにしていることが、正直理解出来なかった。

「ならないわよ、嫌いになんて! 死んだ時の話なんていくらでも話せるわ。やっぱり気分はあんまりいいものじゃないけどね」

「……ごめんなさい」

「私相手にはそんなこと気にしないでいいわよ。……あと、守ろうとしてくれたのは人じゃないわ。飼っていたアンリって猫がいるの。いつも私の事、かばってくれようとしてた。人間で私をかばうようなやつはいなかったから。……そうね、どこから話そうかしら」

 シオンは顎に指を添えながら、自身の境遇について淡々と語ってみせた。自身の周りにはまともな人間が居なかったこと。心を許せる相手は飼猫だけだったということ。実の父親に虐待を受けていたこと、そして母親はそれを見て笑っていたこと。凄惨な人生の中で、それを何処か他人事のように感じることで、心が壊れてしまうのを阻止してきたのだろう。

 度重なる暴力の末に、彼女は命を落としたのだという。よくある話でしょう、と両手を広げるシオンに、クロナは目から涙が溢れるのを止められなかった。

「な、なんでクロナが泣くのよ」

「だって……だって」

「……私、誰かが泣いてる時に、どう慰めたらいいか本当にわからないんだから……」

 そういいながらも、シオンはおずおずとクロナの身体を抱きしめた。この世界で学んだ事を、精一杯頭のなかで反復しながら。クロナはそんなシオンの温かな体温を感じながら、慰められる立場ではないはずの自身を恥じていた。

「ごめんなさい、もう大丈夫。……シオン、わたし、やっぱりもう少しだけ街を回ってみるわ。時計塔に行けば、誰かいるかもしれないし」

「私も行く」

「いいえ、あなたは家へ戻っていて。アンリの言葉を無視できないもの。ギルティさんの家はこの世界で一番安全な場所なの、何が起こっているのかわかるまでは、あなたは家の中にいたほうがいいわ」

 何か言いたげな瞳で見つめてくるシオンの手をギュッと握り、クロナは泣いて赤くなった鼻先のまま笑ってみせる。

「大丈夫、わたしまでいなくなったりしないわ。ちゃんと連絡も入れるようにする。だから心配しないで」

「……絶対よ。もし連絡がとれなくなったりしたら、探しに出ちゃうからね」

「ええ、約束するわ」

 小指を差し出し、固く指切りをした。その後お互いの手を強く打ち合わせると、シオンはギルティの家へ、クロナは時計塔へと、振り返ることなく走りだした。

 

 

 

「本当に、誰もいないわ……わたし以外の足音も、声も……まるで耳が聞こえなくなったみたい……」

 出来る限り辺りに注意を払い、クロナは息を切らしながら走っていた。懐中時計を使わないのは、道中で人に会えることを万が一に賭けてのことだった。それに、力を使う一瞬に、シオンとの繋がりが切れることを危惧してもいる。シオンがクロナを心配するように、クロナもシオンのことをとても心配していた。アンリがわざわざシオンへ警告を寄越す程の危険があるとすれば、それはやはり、シオンを殺した父親が何らかの理由でこちらの世界へ入り込んでしまった可能性が一番によぎる。本来この世界は被害者が集まる世界。しかし、もし自身で道を選べる魂があったのだとしたら?

 ――わたしの勝手な想像に過ぎないけれど、もしそんなことが起きているなら、彼女に絶対近づかせてはいけないわ。

 ギルティの家でじっとしてさえいれば、彼女の身の安全は保証される。なぜなら、あの家は、他でもないギルティの持ち物なのだから。

 

 

 

 クロナは無事だろうか。先程から、そればかりを考えている。胸に懐中時計を抱えたまま、今連絡するのは迷惑ではないかと些細な葛藤を繰り返している。

 彼女に言われたとおり、シオンはギルティの家へ戻り、ソファの上でそわそわと時間が流れるのをただ感じていた。扉に鍵をかけ、カーテンもすべて閉じているため、部屋の中は薄暗い。気が落ち込んでしまいそうになるのを必死に堪えながら、時計の音を聞いている。

 クロナが考えていることはよくわかっていた。父親がここに来ているかもしれないから、自分を避難させたのだと。けれど、とシオンは考える。

 ――私、怖くなんて無いのに。ただただ、腹が立っているだけなのに。

 机の上に置いた緑色の封筒と便箋を見つめる。

 ――私がアンリを守ってあげたかったのに。

「ごめんね……」

 あの時、自身が刃物でもなんでも持ちだして、父親を殺すことが出来ていたのなら、アンリは命を落とさずに済んだのだろうか。そして、アンリを殺した父親がここに来ているのなら、自身はともかく、他の人々に危険が及んでしまうのでは。

「クロナ……ギルティ……メイヤー……」

 今すぐにでも家を飛び出したかったが、未だ自身の能力を見いだせていない分際で力になれる気などさらさらせず、ひたすらに自身の無力さに打ちひしがれる。

 どうか、誰も失いませんように。指を織り合わせ、祈り続ける。

「もう、私から誰も奪わないで」

 神はまだ、生きているのだろうか。

 

 

 

 遥か高みから差し込む月の光が、これほどまで恐ろしく思えたことはない。その光は巨体の影を引き伸ばし、更に大きな怪物を背後に生み出していた。されどその絶望感とは裏腹に、その身体はまるで鎖で縛り付けられているかのように身動きが取れずにいるようだった。

 咽びながらも辿り着いた時計塔の前でクロナがまず最初に見たものは、巨大な人影。二メートル近くあるだろうその体躯に圧倒されたクロナだったが、その足元に見知った人影を見つける。すぐに駆けつけようとするも、その人影が何かを行っているのだと理解し、声をかけることをためらった。

 人影は、赤色の宝石を握りこみ、そしてそれで地面に嵌めこまれている煉瓦に文字を刻んでいた。それはただただ、気だるそうに。面倒くさそうに。呆れながら。苛立ちながら。ガリガリ、ガリガリと音を立てて削れていく宝石。そして代わりに増えていく文字列。

 ――説得を、している……?

 見覚えのあるその行為に、余計に声をかけづらくなる。しかしそのうちに、蹲る人影が声をあげた。

「……そこにいるのはクロナかい?」

「えっ……え、ええ。そう、クロナです。あの……ギルティ、さん……よね?」

「そうさ。……アンタ達は空白のトコに行ってたからか、説得できなかったみたいだね。事前に言ってやれたら良かったんだけど……すまなかったね、思ったより急ぎで、そして時間がかかったんだよ」

 誰もいない街は怖かったろう、と呟くギルティの声には、とても深い謝罪の色が滲んでいた。彼女は、連絡したくともできない理由が、ちゃんとあったのだ。

 ギルティは文字を刻む手は止めないまま、空いた方の手で、目の前にいる巨躯を指し示す。

「こいつがね、本当にダメだったのさ。この世界にはね。来ちゃいけなかったんだ。本当は辿り着くことさえ不可能なはずだってのに、どれだけ罪を重ねるのかね……全く、呆れてものも言えないよ」

 彼女は深く溜息をつく。

「最初は檻で囲って監視してたんだけど、ダメだね、口で説得なんて最初からできるわけなかったんだ。ガーランドに時間をちょっといじってもらって、アタシは作業、作業だよ。ところ構わず破壊しようとするから、まずは世界を壊されないために。それでその作業が終わって、今はこの男を説得中、だ」

「じゃあ、今誰もいないのは、ギルティさんがみんなを守るためにやってくれていたの?」

 クロナの言葉に、ギルティは煙たそうに顔の前で手を振り回した。

「やだねぇ! 守るだなんて。アタシはただ仕事をしてるだけさ。コトノハとしての仕事をね。魂達はいまは眠ってるよ。全員きっちりとね」

「……よかった。みんなちゃんと無事でいるのね」

「そうさ、大丈夫。誰も消されちゃあないんだ。ついでに言うとこの世界も、自らが凄まじく強固な物質で出来ていると思い込んでるんじゃないかね。そしてこいつも、もう動けやしないさ」

「この人は、もしかして……シオンのお父さんなの?」

 その言葉に、一瞬ギルティの手が止まる。が、すぐに何事もなかったかのように動き出し、その手は更に多くの文字を書き連ねてゆく。

「やっぱりクロナはあの子にとって特別なのかね? そんなことを話すなんて」

「違うの、私が……私が、無理矢理聞いたの」

「聞いて答えるってことは、そういうことさ。その通り、こいつはあの子の父親さ。救いようのないクズで、到底被害者とは呼べない。……クロナ、こいつ、とんでもなくでかいだろう?」

 言われ、クロナは改めて硬直している人影を見る。動けず声もでないのだろう、その表情だけが怒りに染まっていた。とっさに目を逸らし、胸の前で両手を握りしめる。

「ええ……ええ。とても、大きくて、恐ろしいわ」

「そうだろう。でもね、こいつはもともとこんなに大きくなんてないんだよ。それでも、こんなに大きく、恐ろしく見えるのは、そういうふうに見えている者がこの世界にいるってことなんだよ」

「……それは」

 考えるまでもなく、シオンだ。

「この恐怖が麻痺しちまう程の事を、なんだって愛する我が子に出来るもんかね。アタシにはどうあがいても理解が及ばないよ」

 口で言葉を綴りながら器用に手で文字を綴るギルティは、その最後の一節を書き終えたのか、力強くピリオドを穿つと、のろのろと立ち上がった。起きたばかりのように身体を伸ばし、ひねり、深呼吸をする。そして一呼吸を置き、彼女は帽子を脱いだ。

 クロナは彼女が人前で帽子を取った姿を今の今まで見たことがなかった。だからこそ、今彼女が帽子を取ったことに、予感めいたものを感じずにはいられなかった。

 そしてそれは、真実へと。

「――さて、クロナ。封筒をお出し」

「……え? ど、どうして……?」

「どうしてってアンタ、そりゃあ手紙を書くからに決まってるじゃないか」

 ほれほれ、と手をはためかせ催促するギルティに、クロナは戸惑いの声をあげる。

「で、でも……この封筒を使うということは」

「そう。そういうことだよ、クロナ」

「どうして……?」

「どうしてもこうしてもないよ。コトノハがその封筒で手紙を書く時が、一体どういう時なのか……賢いアンタならすぐわかるだろう?」

 もちろん、クロナにはわかっている。それが何を意味するのか。躊躇ったが、そうとなれば時間がない。おずおずと差し出すと、ギルティは微笑みながら封筒を受け取った。

「そんな顔をするんじゃないよ。いつかはみんなこうなるのさ。アタシ達は、みんな、みーんなね」

 俯くクロナの頭を、ギルティは乱暴に撫でまわす。

「でも、あーあ、やだねえ……こんなクソ男がそのきっかけになっちまうなんて、気分が悪いにも程があるよ」

 そう吐き捨てると同時に、手にした封筒には封がされ、ギルティはそのままクロナへと返す。クロナがしっかりと受け取ると、もう一度その頭を撫でる。

「いい子だね、クロナ。シオンも態度は悪いが本当はいい子なんだよ。どうかこれからも仲良くしてやっておくれね」

 離れようとする手を、クロナはとっさに握る。

「ぎ、ギルティさん!」

「……? どうしたんだい」

「あなたを縛っていたものは……あなたがやりたかったことは、一体、何だったの?」

 ギルティはふ、と口元を綻ばせた。

「尊い命を――守ること、かね……」

 小さな小さな呟きは風にもかき消されそうな程だったが、クロナは、その言葉をしっかりと受け取ったのだった。

 ギルティはもう一度大きく伸びをすると、すっきりとした表情で懐中時計を手に取った。そして何事かを呟くと、彼女が綴っていた地面の文字列が赤く輝き始める。

「こいつはアタシが責任をもってこの世界から引っ張り出すから、安心おし。それじゃあクロナ、元気でやるんだよ」

「ギルティさんも……お元気で」

 涙をこらえて手を振ると、ギルティも大きく手を振った。その刹那、烈風が駆け抜けたかと思えば、目の前には先程までそこにいた者達の痕跡は何一つ残されておらず――止まっていた時間が再び動き出したかのように、世界は徐々に賑わいを取り戻していったのだった。

 

 

 

 クロナは懐中時計を起動させ、シオンの待つギルティの家へと舞い戻った。そこでクロナが目にしたものは、シオンと別れた時までは庭に咲き誇っていたであろう花々が一切消え失せ、寒々とした庭だった。

 ――あのお花も、ギルティさんの能力だったのね。

 確かな寂しさを覚えながらも、玄関の扉に近づく。一つ呼吸をしてから、ノックをする。

「シオン、クロナよ。鍵を開けてくれる?」

 声をかけるとすぐに鍵の開く音が聞こえ、ゆっくりと扉が開かれた。そこに立っていたシオンの姿をクロナが確認するやいなや、突然腕を強く引かれ、家の中に引きずり込まれる。

「わっ!」

 シオンは再び乱暴に鍵を閉めると、クロナをギュッと抱きしめて叫んだ。

「もう嫌! もう嫌よこんなの、なんでなのよ、なんであいつは私の邪魔ばかりするの!!」

「シオン、待って、聞いて」

「ギルティの気配が無くなったの! つまり死んだんでしょ、殺されたんでしょ!? 嫌よ、クロナまでいなくなったりしたら……ここで私とずっと居て!」

「シオン……」

 シオンの身体の震えを直に感じながら、クロナはなんとか落ち着かせようと背中を優しく叩いた。

「大丈夫。大丈夫よ……誰も、殺されてなんていない。傷つけられてなんていないわ」

「でもっ、ギルティが……!」

「あのね、シオン。ギルティさんは死んだのではないわ。彼女は、コトノハとしての役目を終えて、再び巡ることを許されただけなの。よくないタイミングで、出来事が重なってしまっただけ。彼女がみんなを守ってくれたから、もう怖いことなんてなにもないわ。だから、もう怯えなくてもいいのよ」

 そういい、クロナは語るよりもきっとこの方が早いだろうと感じ、ギルティから受け取った封筒をシオンへ差し出す。シオンは無言のまま受け取ると、中から二枚の便箋を引っ張りだし、そしてその一枚をクロナに返した。

「これ……一枚はあなた宛てみたいだから」

「ギルティさん、器用ね……普通は一人にしか宛てられないはずなのに。この世界の中だからかしら」

 沈んだ表情だったはずのシオンは、クロナの言葉を聞いて呆れた溜息を漏らした。原則一人にしか宛てられないはずのコトノハの封筒に、二人分もの便箋をつめてみせたのだ。仕組みそのものを捻じ曲げるような余裕が彼女にはあったのだと思うと、なんだかとても、そう、とても深い悲しみに暮れるのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 二人は、折りたたまれた便箋を恐る恐る開く。中に美しい字で書き込まれた内容はそれぞれにもちろん違ったが、愛情にあふれた文面にその差はなかった。

 最後に綴られていた送り主の名前は、〝レイア・ロドニー〟。しがらみから開放されたためか、自身を許すことができたためか、かつて彼女が使っていた形容詞の姿は、どこにもなかった。

「なによ……綺麗な名前、持ってるじゃない……っ!」

 嗚咽を堪らえようともせず、シオンは旅立っていった友を想い大声で泣いた。これまでの感謝の気持ちをついに伝えることは出来なかったけれど、ここから祈り続けていれば、いつか届くだろうか。

 文字の消え失せた便箋をギュッと胸の前で握りしめ、あとほんの少しの時間だけ、二人で、泣いた。

 

 

 

 街はすっかり元通りになり、【集団寝坊事件】の騒ぎも落ち着き始めた頃、二人は華やかさが失われた庭へと再び訪れていた。

「お庭、寂しくなっちゃったわね」

「うん……」

 ギルティ――レイアの能力により咲き誇っていた花は、彼女がこの世界から去ったことにより、共に消えていった。彼女が【絶対に破壊されることのない我が家】として暗示をかけていたこの家も、おそらく今は他の建物と変わらぬ強度となっているだろう。

 シオンは名残惜しそうに、ぐりぐりと地面をいじくり回す。

 ――また、咲いてくれたらいいのに。

 そう考えるも、植物を一から育てなおすとすれば、そして元の庭のように美しく咲かせようとすれば、かなりの時間がかかってしまうだろう。時間は惜しくはないが、自身にそれができるのかと考え、シオンは溜息をついた。

 その瞬間、彼女の弄っていた土から、小さな芽が飛び出した。

「……ええ!?」

 裏返ったシオンの声に驚いたクロナはとっさに視線を向ける。その間にも芽はむくむくと大きくなり、早送りのように急速に成長を遂げ、すぐに一輪の花として咲き誇ったのだった。

「なあに、それ! シオンがやったの? すごいわ!」

「ま、待って! 私かわかんないわ、なんかいきなり、いきなり生えてきた!」

「植物はなにもしなければいきなりは生えないもの、きっと……そう、そうだわ、実はシオンも、レイアさんと同じ固有能力の持ち主だったのかも。ねえ、もう一度やってみればわかるのではないかしら」

 きらきらと瞳を輝かせるクロナに説得され、シオンはもう一度、どうやったのかもわからないことをやってみることにした。懐中時計を使う時と同じように、できるだけ意識を集中させ、願う。

「……」

 首を傾げる。が、何も言わずに再び集中する。それを何度か繰り返すと一輪の花が咲き、やがてシオンは大きく息を吐く。

「ど、どう? なにかわかった?」

 クロナがどきどきしながら問いかけると、シオンはげんなりとした顔で口を開く。

「ダメ。私、花を咲かせることしかできない」

 そう呟くや否や、シオンは手で顔を覆って嘆き始めた。

「私ってホントにダメだわ! せっかく魔法が使えるようになったって、こんなんじゃ何の役にも立てっこないじゃない――!!」

「そんなことないわ、使いようによっては、きっと、いろいろ……」

「……例えば、どんな?」

「えっと……そうね……」

 じっとりとした視線で見つめられ、クロナはたじろぎながらも、考えてみる。

「お花って、贈るものでしょう? コトノハも、心を贈るもの……そうだ、心を贈るときに、一緒にお花も贈ったりしたら、すてきではない?」

「素敵かどうかというより、コトノハのサポートとしての使い方を聞きたかったんだけど……」

「あっあっ、そ、そうよね。……ごめんなさい」

「でも、素敵か素敵じゃないかで言えば、確かに素敵だわ」

 シオンはしたり顔でそう呟くと、クロナの両手を握って身を乗り出す。

「ねえクロナ、あなたが手紙を渡し終えたあと、私が咲かせた花を空白の区画に放ってよ。私結局、普通のコトノハの仕事は向いてないってわかったし……でも、あなたの言うとおり花は贈るものだわ。花を通して、心を贈ったりも、できるかも」

 シオンは一人で納得しながら、新たに二輪の種類の違う花を咲かせると、それを摘んでクロナに差し出す。

「これは?」

「シンビジウム。それとサンダーソニア。ねえ、もう遅いかもしれないけれど、今からでも贈りたいの。試すくらいなら、構わないでしょ?」

「……ええ、やってみましょう!」

 すぐにクロナはボリスに承諾を得て、空白の区画へと移動した。辺りを見回しても、懐中時計を使用しなければ、そこは何もない白い世界でしかない。

「まだ、ここにいるかしら」

「探さなくてもわかるわよ。もう、とっくに居ないわ。二人とも……ね」

 シオンはそう言ったが、諦めたような声音ではなかった。

 手にした花を白い空間へそっと流すと、花は落ちずにゆっくりと滑るように移動してゆき、やがてゆるやかに花弁が散り、溶けるように消えていった。

「さよなら、元気でね」

 彼女が花を贈ったことにより何か変わったのか、それは誰にもわからない。しかし、彼女の中の悲しみが暖かなものへと昇華されたことだけは確かだった。

 

 

 

✦ ✦ ✦

 

 

 

 いつからか、新しい生命が生まれると、不思議とその家の周りには美しい花が咲き乱れる事がしばしばあった。

 それは誰が植えたわけでもなく、その子が生まれるのを待っていたかのように、いつの間にか、そっと。そしてその花はまた、そっと消えてゆくのだった。

 ほんの少しの間、その子を祝福するかのように咲いては、風に溶けるように消えてゆく花を、人々は天使の贈物などと呼び、幸福の象徴として扱われるようになったのだという――

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