ポエティック・ロマンス

〈私は、一体いつまでここにいるつもりなのだろう。いつまで、ここでじっとしているつもりなのだろう。

 しかし私には、もうそれしかないのだ。どこにもいく事なんてできやしない。何故なら、もう、この部屋の扉が開くことなんて、一切ないのだから〉

 

 

 

 ぱらり、と乾いた本のページを捲る音だけが、部屋の中にこだまする。風に舞うわけでもなくひとりでにページを変えるその本は、一人の少女の古き記憶。今なおこの部屋に縛られる、魂の記録。触れずとも書き足されていく、新たな記述。

 ベッドに腰をかけ俯く少女は、突然に響いた控えめなノックの音に、薄く瞼を開いた。

 足音はおろか、人の気配も一切しないはずのこの部屋へ、今日も彼はあししげく通う。何も知らずに、訪れる。

「こんにちは、メルティ」

 とても柔らかい声だ、と、少女は思う。思うたびに、想いは本へと綴られた。

 今や少女は、想いを綴るだけの亡霊と成り果てていた。その事実に悲しみを感じることはない。もう誰からも疎まれることはないのだと思うと、彼女にとってはそれこそが幸福なのだと思えた。

 ただひとつ心残りをあげるとすれば、日々訪れるこの少年に、自分がすでに死んでいることを伝えられない、ということだろうか。

 しかし、いつか気付くだろう。その瞬間から彼は義務から解き放たれ、少女――メルティは再び一人になる。そしてまた、一人の時間を永遠に綴るだけの日々を過ごすのだ。

 彼は、名をキーノと言うらしい。彼が初めてこの家に来た際、扉の向こうから父親にそう告げられたのをかろうじて覚えている。それ以降父親を含め、キーノ以外の人間から声をかけられることは無くなったが、それはしかたのないことだった。

 彼女は幼い頃から、異様に文字を綴るのが得意だった。初めこそ神童だ才子だと持て囃されていたが、やがてその異常さに気が付き始めた大人たちは、気持ちが悪いと、おぞましいと、彼女を嫌い突き放すようになり――挙句の果てに、家の離れへと軟禁をする形で、なんとか彼らは心の平穏を保とうとした。

 妙なものとは関わり合いたくない。その気持ちは、メルティにはよくわかっていた。痛いほど理解できた。だからこそ、その事実を嘆く気分には、大人たちを責める気分には、とてもなれなかった。このまま自身はこの部屋の中で朽ちてゆくのだな、としみじみと感じていたその時に、彼がここへやってきたのだった。

 彼女の世話係として雇われたのだろうが、メルティにはどうにも部屋の鍵を開ける勇気がなかった。

 迫害されているこの身を、彼が見たらどう思うのだろうか。やはり、気味が悪いと思うのだろうか。そう考えると、腰掛けたベッドから一歩進むのも怖くなり、返事も出来ないままに、彼は「また来るね」と告げて去ってゆく。自分の世話を任されたのに、何もせずに戻ってしまって、彼は怒られやしないだろうか。メルティは日々謝罪しようと言葉を用意していたが、その言葉は最後まで伝えることは出来なかった。

 やがてメルティの身体は死に絶え、しかしその事を知らない彼は、今でも彼女の元へやってくる。とても長い時間を過ごしていたように感じていたが、彼の声は未だ少年のまま。自身が感じているよりも、時の流れは遅いのかもしれない。そうメルティは考え、再び瞳を閉じる。

 彼はいつも、一方的に話しては帰ってゆく。時々返答を求めるように問いかけてくるが、今のメルティは返事をするための声もなく、数秒の無音のあと、また彼は他愛もない話を続ける。今日は庭の花が綺麗に咲いたことだとか、窓を綺麗に磨けて陽の光が眩しいことだとか。そんな、本当に何気ない、退屈な話を、彼は楽しそうに話す。その声に、彼女はずっと耳を傾ける。心のなかで、小さく相槌を打ちながら。

 

 庭の花が綺麗に咲いたんだ。

 ――本当に? 私も見てみたい。

 

 曇った窓ガラス、綺麗に拭いたら、お日様の光が沢山はいるようになったよ!

 ――この家は薄暗かったから、それで少しは明るくなるかしら?

 

 聞こえぬ声に、延々と。

 聞こえない声で、延々と。

 彼と、彼女は、繰り返す。いつかくる終わりの日まで。

 そして今日も、話し終えた彼は「また来るね」と言葉を残し、扉の向こうから姿を消したのだった。

 ――いつまで、彼は来るのかしら。

 終わりの日は、一体いつになるのだろう。

 ――彼は、いつまで来てくれるのかしら。

 彼女の死を知ってしまったら、彼はここに訪れることはなくなってしまうのだろうか。それを嫌だと感じ始めた時、自身は悪霊になるのだろう、と彼女は思った。そう思ってしまってはいけないのだ。

 ――死者というのは、どうしたって生きている人間に惹きつけられてしまうのかしらね?

 枕元に置かれている絵本の表紙を撫でながら、メルティは物憂げな吐息を漏らした。

 

「すごい。勝手に文字が増えるなんて……」

 すっかり自分の世界に浸りきっていたメルティは、突然聞こえた声に素早く顔をあげる。窓際に視線をやると、自身の記憶が綴られてゆくその本を、不思議そうに眺める少女の姿があった。

「な、な……あ……!?」

 メルティは驚いて思わず声を出す。すると少女は急いで本の傍から離れ、申し訳無さそうに頭を下げたのだった。

「ご、ごめんなさい、つい……見たことのない能力だったから、思わず眺めてしまって。あっ、でも内容は読んでいないわ、安心してね」

 安心して、と言われても。メルティは正直にそう思ったが、そんなことよりも今は気になることがある。

 なぜ突然、少女がこの部屋に訪れたのか。扉はおろか、窓さえも内側から施錠されている部屋の中に入ることは実質不可能なはずだ。

「貴女、どうしてこの部屋に入ってこられたの」

 メルティが率直に問うてみると、少女は答える。

「あなたが、何度もわたしたちのことを呼んでいたからよ」

「答えになっていないわ。そもそも、どうして私と会話ができるの? 私はもう死んでいるのよ。死んでいる人間の声が届く相手などいないわ……」

「そんなことはないわ。あなたの声は、死者にも、そして生者にも届けることができる。人の想いは、決して消えたりはしないもの」

 悲しげに訴えるメルティに、少女は静かに微笑む。

「そして、その想いを伝えるのが、わたしたちのお仕事。……今から、それを説明するわね」

 

 突然現れ、そしてメルティに呼ばれたからだと答えてみせた少女は、ぽつぽつと話し始める。自分たちがコトノハという職業の者だということ、コトノハは死者からの言葉を人へ届ける役割があるということ、そして、メルティ自身が誰かに想いを伝えたいがあまり、ゆくべき場所へ行くことが出来ずにいるということ。

「本当は浄化が終わった魂から想いを預かることが多いのだけれど……そう決められているわけではないのだしね。一生に一度しか出来ないことだから、伝えるタイミングを決めるのはあなた次第なの。そして今が、そのタイミングみたい」

「どうしてそれがわかるのかしら?」

「あなたがわたしたちを呼んだからよ。わたしたちは、想いを伝えたいと心の底から願う死者の魂の元へと、導かれるの」

 さあ、願いをどうぞ。そう言わんばかりに封筒を手渡そうとする少女――クロナに、メルティははっきりと言い切る。

「いいえ、結構よ。私に想いを伝えたい相手など居ないのだから。貴女達の仕事を一人分減らしてしまうのは申し訳ないと思うけれど、どうぞ帰ってくれて構わないわ」

「本当に?」

「本当よ」

 突き放すように言うメルティの顔を一度よく眺め、クロナは部屋の扉へと視線を移す。そして何事かを考えると、もう一度メルティに向き直り、言う。

「……本当に?」

「本当なのだって!」

「そう。わかったわ、じゃあ今日は帰るわね。……でも」

 以外にもあっさりと諦めたのかと思いきや、少女は振り向きざまに一言言い残す。

「あなたが想いを伝えたいと叫び続けるかぎり、わたしたちはここへ訪れなければならないの。明日も、明後日も。鬱陶しいと思うかもしれないけれど、それがお仕事だから」

 困ったように笑い、少女は姿を消した。

「……ふう……」

 再び静かになった部屋で、メルティは息を吐く。

 ――想いが伝えられるなんて、そんな都合のいい。

 ――今更、何を伝えたところで。なにも変わりはしないわ。そうでしょう?

 ――どうせ、もう、会えないのだから。

 そしてまた、本には文字が敷き詰められてゆくのだった。

 

 

 

「おはよう」

 先日訪れた少女が告げた通り、本当にまたコトノハがこの部屋へ訪れた。しかし今度は違う少女であった。

「クロナをあんまり困らせないでよ。あの子帰ってきてから心配しっぱなしだったんだからね」

 不貞腐れたような顔で少女は言う。

「とっとと伝えて早く眠りにつきなさいよ」

 釘を刺して、少女は消えていった。

 

「こんばんは!」

 また少しして、別の少女が現れた。

「聞いたよ~なんか事情ありげ? な感じなんだって?」

 だいぶんと軽い口調で話す少女だ。

「そんなことより恋バナしよ!」

「丁重にお断りさせていただくわ……」

「えー! でも好きなんでしょ? 伝えたい事がある相手のことが好きなんでしょ?」

「だから違うのだってば! 伝えたいことなんて私にはないわ」

「好きなことは否定しなかったね! お姉ちゃんはメルティちゃんを応援するからね!」

 きらきらした瞳でメルティの両手をがっちりと握ると、少女は帰っていった。

 

 そのような流れを二、三回繰り返し、メルティがいよいようんざりとしてきたころ、一番初めに訪れた少女、クロナがやってきた。まずは自分以外のコトノハが迷惑をかけていたらごめんなさい、と一言述べたあと、困ったような笑顔で言った。

「今日も、来ちゃったわ」

「……」

 メルティはなにも言わずに首を振る。来るなと言っても、あちらからしてみればそれこそ呼ぶなというところなのだろう。メルティには彼女達を呼んだ覚えなどないが、毎回収穫がないにも関わらず、呼ばれれば訪れなければならない彼女たちに少しだけ同情する。

「ねえ、貴女」

「なあに?」

 声をかけると、少女は嫌な顔ひとつせずに窓の外へ向けていた視線をメルティへ戻す。

「……なんでもないわ」

「そう? もし伝えたい事が決まったら、いつでも言ってね」

「私がその、伝えたいことというのをいつまでも先延ばしにしながら、尚も貴女達を呼びつづけたら――貴女達は、永遠にここに来なければならないのかしら」

「そうね……」

 クロナは一瞬考え、真剣な顔をする。

「確かにそうなるのかもしれないけれど、貴女が永遠にここにいるということは出来ないのよ、メルティ。死者の魂は、いつまでもこの世界にはいられない。いつか摩滅して、消滅してしまうわ」

「……そう、でしょうね」

「あなたはそれでいいと言うかもしれないけれど、わたしはあなたを知ってしまったからには、そんなことになってほしくはないの。だからできる限り、あなた自身に満足してもらって、歩き出してほしいと思うのだけれど……それはわたしだけのわがままかもしれないわね」

 だからすぐにとは言わないけれど、わたしは待つわ。そう言って笑うと、少女はまた窓の方へと顔を向ける。

 ――堂々巡りとは、思わないのかしら。

 しばらく考えるように瞳を閉じていたメルティだったが、やがて廊下から聞こえてくる足音に気付くと、顔を上げる。

 トントン、とノックの音が聞こえると、やわらかな声が扉の向こうから部屋の中へと入ってきた。

「こんにちは、メルティ」

 柔らかな声は、メルティの陰鬱な世界を容易く壊してしまう。

 いつまでも、この世界の中で浸っていたい。だが、そう願ってはいけないのだ。彼を縛り付けてしまわないように。自身が、欲望に支配されてしまわないように。

「彼、優しい人ね」

 クロナが聞こえないくらい小さな声でそう呟くと、メルティは寂しそうな顔をしながら、ゆるゆると首を振った。

「父に言いつけられているだけよ。彼は仕事で来ているだけ」

「……そうなのかしら」

「そうよ」

 そう言われ、クロナはまた窓の外をみつめ、もう一度だけ「そうなのかしら」と呟いた。

「ねえメルティ」

「なにかしら」

 クロナは窓の外を眺めながら言う。

「もちろん早くしろなんて言うわけではないのだけれど……もしも彼に一つだけ伝えるとしたら、なんて伝えたい?」

「またその話」

「このくらいでないと、わたしとお話ししようなんて思ってはくれないでしょう?」

 ――私、そこまで無愛想な態度をとってしまっていたかしら。

 メルティはまたゆるゆると首を振ると、少しの間黙りこみ、そしてこう言った。

「〝もう来ないで〟かしら」

「どうして?」

「私が死んだことも知らずに、ずっと死体に話しかけている彼が、不憫で仕方がないから」

 うつむきながらそう語る少女は、誰の目から見ても、それが本心ではないとはっきりとわかるほどに、悲しい瞳をしていた。

「彼はあなたに話しかけているわ」

「同じことよ」

「いいえ。だってあなたは、まだここにいるのだもの」

「どうして、そんなことを言うの?」

 ――どうして、私に期待させるようなことを言ってしまうの。

「わたしたちは、あなたの叫びを聞いてここに来ているんだもの。あなたが誰かに、心の底から伝えたい事があることを知っているから」

「今更、何を伝えろというの」

「あなたが伝えたいことをありのままに、よ。なにも我慢なんてしなくていいの。我慢するより、よほどいいわ」

 クロナに優しく諭され、メルティは部屋の扉を振り返る。今ならまだ、彼はそこにいる。いつものように話をしている。彼は、そこにいるのだ。

 ――もしかしたら、明日はもう、来てくれないかもしれない。もういいと父に言われ、この家を出て行ってしまうかもしれない。

 ――そんなのは、嫌。

 だけれど、どうすればいいのか、彼女にはわからなかった。今更聞かせられる声も、見せられる姿もありはしないのだから。

「いいえ、なんでもできるわ、メルティ。あなたが、わたしたちを信じてくれるなら」

 クロナの声を受けながら、メルティは扉に駆け寄った。震える手を扉に近づけていく。その時、クロナの懐中時計が淡い光を放った。

 ――信じてくれたのね。

 薄く微笑み、彼女はそっと蓋を開けた。

 

 トン。

 

 メルティの指先が、確かに扉を叩いた。その音を聞いたのか、キーノの話が途中で途切れた。

 もう一度ゆっくりと扉をノックすると、向こう側からもノックが聞こえてくる。

「メルティ? ……メルティなの?」

 声を出すことは叶わなかった。代わりに、扉を叩く。

「やっと、応えてくれたんだね」

 今にも泣き出しそうなその声に、メルティは申し訳無さで心がいっぱいになるのを感じていた。もっと早くに応えていたらよかったと。そう出来なかった自身が、とても情けないと。

「今、話はできる?」

 いいえと言えず、口をつぐむ。黙っていると、キーノは言う。

「声は出せない? 出したくない?」

 また黙っていると、提案があった。

「じゃあ、はいなら一度、いいえなら二回、ノックしてくれる? それなら……いいかな?」

 少し躊躇ったが、メルティははい、と一度だけノックをした。

「……ありがとう、メルティ。僕、ずっと君と話をしてみたかったんだ。いま、とても、とても嬉しい」

 キーノは涙に濡れた声で、しかし嬉しそうにそう言うと、ぽつぽつと、メルティに話しかけ始めた。

 

「今まで寂しくはなかった?」

 トン。 ――大丈夫、平気だった。

「毎日僕が来て、鬱陶しかったかな?」

 トン、トン。 ――毎日貴方が来てくれていたから。

「本当に?」

 トン。 ――お世辞は言わないわ。

「変なこと、聞いてもいい?」

 トン。 ――なに?

「どうして今日まで、返事をしてくれなかったの?」

 ……。

「答えにくい質問だったね。ごめんね」

 ……トン。

「ずっと、いるのはわかってたから。僕が嫌いなんだと思ってた」

 トン、トン。 ――そんなことない。

「もしかして、僕が君を見て怯えると思っていた?」

 ……トン。――貴方が私をどんな目で見るのか、想像するととても怖かった。

「メルティ、僕は、君のことを怖がったりなんて、絶対にしないよ」

 ……。 ――保証なんてどこにもないもの。

「そうじゃなきゃ、毎日来たりなんてしない」

 ……。 ――そうかしら。

「酷な話をするけれども。ご主人様はね、嫌ならすぐにやめてもいいと仰ったんだ。契約通りの金はやる、ともね。でも、僕は君の傍にいたかったから……」

 ……。

「ごめんね、僕ばっかり話して」

 トン、トン。 ――いいの。

「……ありがとう」

 トン。 ――……いいの。

「ねえ、メルティ」

 トン。 ――なに?

「言いたかったこと、言ってもいい?」

 トン。 ――どうぞ。

「ずっと、考えてたことなんだけどね」

 トン。 ――ええ。

「僕、メルティが好きだ」

 ……。

「声も姿も何もかも知らない。でも、大好きなんだ」

 ……。

「……ごめんね」

 ……。

「君は僕のことなんてなんとも思っていないかもしれないけど、僕は――」

 トン、トン。トン、トン。トン……。

 

 ――ちがう、違うのそうじゃない。

 ――私、私は。

 

 トン、トン。

 ――なんとも思っていないなんて。

 トン、トン。

 ――なんでそんなこというの?

 

 トン、トン。

 ――私も、貴方のことが好きなのに。

 

 メルティは苦しくてしゃがみ込みながら、震える手でノックを繰り返した。そうじゃない、そうじゃない、と。もしかしたら、それは拒絶に聞こえるだろうか。そう思い、また、二回のノックを繰り返す。

「メルティ」

 キーノの優しい声が、彼女を呼ぶ。

「僕は、これからも君を好きでいて、いい?」

 最後の力を振り絞って、メルティは扉を叩いた。

「ありがとう、メルティ」

 メルティは顔を両手で覆い、泣いていた。

 優しい声、大好きなひと。こんな私を好きと言ってくれるひと。ずっとこうして話していたい。しかし、別れの時は刻一刻と迫っていた。

 随分と、身体が軽い。気のせいかもしれないが、メルティは自分の体がほのかな光をまとっているように思えた。

 ――私、もういかなくてはならないのね。

 見たこともない彼の姿を想像し、湧き上がる寂しさを必死に堪える。

「メルティ?」

 途端に返事が途切れたメルティに、キーノは恐る恐る声をかけた。すると、扉に手を当てたような、小さな物音が返ってくる。

「……たくさん話しかけられて、疲れちゃったかな。ごめんねメルティ、楽しくて」

 ――いいの。

「最後に、一つだけいいかな」

 ――なに?

「君に、会うことは……出来ない?」

 ――……。

 メルティは黙りこんだ。会えやしない。会えやしないのだ。

 ――ごめんね。もっと早く、私が勇気を出していれば、ちゃんと、顔を見合わせることが出来たかもしれないのに。

 心のなかで謝罪し、そして、メルティは首にかけていた鍵に手をのばす。

「……いいの?」

 思わずクロナが話しかけると、メルティは目元を拭って、笑ってみせる。

「いいの。もう、内緒にしなくても、いい気がして」

 そう言うと、メルティはゆっくりとドアノブに手を掛け――鍵を、開けた。

 扉を自分で開く勇気はなかった。そして、部屋に入ってくるであろう、彼の表情を見るのも辛かった。

「行きましょう、コトノハさん」

「今ならまだ、ぎりぎり会えるけれど……?」

「いいの。もう、私は満足したのだから」

「……そう。なら、私は止めないわ」

 クロナはメルティの片手を握ると、懐中時計を起動させ、道を開いた。メルティは一度扉を振り返ると、そのまま道を進んでゆく。

 もう、歩みを緩めることはなかった。

 

✦ ✦ ✦

 

 ガチャリ、と重い音が扉から聞こえた。

「……メルティ?」

 問いかけるが、ノックはない。それどころか、わずかに漂っていたはずの彼女の気配が、もうどこにも感じられなくなっていた。

「……」

 扉の前で佇む青年は、暫くの間、扉に手を当てたまま、じっとしていた。

 ――メルティ。

 ローズヒップ家の者達が、この屋敷を捨ててから、一体どれくらいの月日が流れたのだろうか。一家の末娘・メルティを恐れた家族たちは、軟禁だけでは事足りず、ついには彼女一人を置いたまま、この家を放置したのだった。当時少年だったキーノは必死に説得を試みたが、当然彼の言葉は一蹴された。約束された通りの金銭は支払われ、それは相当な額であったが、キーノにはその金に浮かれてすぐにこの屋敷を離れるなどということは出来なかった。

 それからずっと、ここへ来ては、扉の向こう側にいる少女に話しかけている。ずっと、ずっと。もう生きていることはないだろうと思い始めてからも、ずっと。

 カーテンは開いていたようだから、そこから中の様子を窺うことはできただろう。しかし、キーノはしなかった。

 少女の部屋を覗くなどと不躾なことはしたくない。それが好きな女の子の部屋となると、尚更だった。

 姿を見たことはない。会話はおろか、声さえも聞いたことがなかった。それでも、なぜか、ふんわりと、好きだと感じていた。

 とくに彼女自身を想像して夢を見ていたという覚えはない。ただ、ひたすらに文字を綴る少女だと聞いていた。キーノは一度だけ主人にその文章を見せてもらったことがあるが、歳のわりにはとても綺麗な字で、そして綺麗な文章だった。一家は嫌うが、キーノはその文字が好きだった。

 だから、もうすぐこの家が取り壊されると知った今でも、彼女のいる部屋に、身勝手な思いで侵入したくはなかったのだ。

 彼女が、部屋の扉を開けてくれたのなら。ずっと、そう思っていた。しかし、そんなことが叶うはずがないことも、もちろんわかっていた。

 まだ部屋の中に彼女がいる、と叫ぶ姿は、さぞ滑稽で悍ましかっただろう。突然訪ねてきたと思えば、もう少しだけ待ってほしいと頭を下げるキーノに、一家はかつてメルティに向けていたそれと同じ視線を向けながら、なにも言わずに彼を放り出した。しかし未だに取り壊されていないということは、主人にもどこか思うところがあったのかも知れない。当然、それは今更なことだったが。

 鍵が開けられたドアノブに手を掛け、キーノはゆっくりと息を吸う。

 ――彼女が、開けてくれたんだろうか。

 ――彼女は、僕がこの部屋に入ることを許してくれたんだろうか。

 もしかしたら、古くなった扉がひとりでに鍵を開けただけなのかもしれない。今まで話していた相手は、自分の頭のなかにしか存在しないのかも知れない。何度もそう考えたが、キーノは意を決し、ドアノブをひねった。

 押し開けられた扉の中は、まるで時の流れから切り離されていたかのように、美しい形を保ったままだった。しかしその中で、時の流れに逆らえなかったものが一つだけ。

 キーノは白骨化した少女の遺体にそっと触れると、ぼろぼろと大粒の涙を流す。

 悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのかはもうキーノ自身にもわからなかった。ただ、溢れ出る涙を止めることができず、遠い少年の日を思い出しながら、途方に暮れていた。

 

 ふと、背後から紙を捲る音が聞こえた。導かれるように振り向くと、一冊の本が、吹くはずもない風に吹かれるように、ページをはためかせていた。

 ゆっくりと立ち上がり、本に近づく。すると、そこに書かれていたのは、見覚えのある筆跡で綴られた、たった一言のメッセージだった。

 

〝今までありがとう。大好きなキーノへ〟

 

「……メルティ……」

 古くなった本にはそぐわぬはっきりとしたその文字が、いつ書かれたものかはわからない。それでも、先程まで返事をくれていた相手はメルティ本人だったのだと、そう考えられるものだった。

「ありがとう、ごめんね。僕も……大好きだよ」

 瞳を閉じて、本に触れる。すると不思議と、彼女に触れているかのような温もりを感じた。

 

 長らく閉ざされていた窓を開けると、ふわりと風が入り込んでくる。すると、この世界の時間がゆっくりと動き出すように、みるみるうちに荒廃していったのだった。

 ありえない光景、それでもキーノは目をそらさずに、最後の花弁が一枚朽ち果てるまで、眺めていた。

「君は、ちゃんと旅立てたのかな……」

 文字の消えた本を優しく撫でながら、キーノは静かに呟いた。

 

 

 

✦ ✦ ✦

 

 

 

「メルティちゃ――ん! ロベリアお姉ちゃんだよぉ――!」

「……そうね、ロベリアね……」

「うわーメルティちゃんテンションひっくぅい! もっと元気だしていこ! ね!」

「私は元気だけれど……貴女が常にハイテンションなだけでしょう」

「つめった――い!」

 ぷんすこっ、と自分で効果音を口にしながら怒るロベリアを軽くいなしつつ、メルティはプリーズ――座席を切り取り軽量化したモーターサイクル、のような二輪車だ――からしぶしぶ降りた。

「今日はなに? また恋バナ……だったかしら、その相手を探しているの?」

「そうそう! ってちがーう! 今日のロベリアお姉ちゃんは~、そう! 恋のキューピッド! なのですぞ!」

「そう」

「あしらわないでよぅ!」

 メルティはふう、と溜息をつく。最初は機嫌を悪くさせたのかとたじろいだロベリアも、今ではこれは彼女の癖だと理解しているため、ちょっとやそっとでは怯まなくなった。

 

 あの後、メルティが連れてこられたのは、クロナ達コトノハの住むこの世界だった。因果を溜め込んだ魂はコトノハとして自らの魂を浄化しないといけない、ということは事前に聞いていたため、メルティはとくにためらう理由もなく、今はこうしてコトノハとしての業務に明け暮れていた。

 と言ってもまだ新米なので、現在は試験のために日々勉学に励みつつ、プリーズに乗って街のパトロールをしている。

 この世界では魂の年齢が見た目に反映されるため、死した後もしばらく世界に留まっていたメルティの姿は、少女のそれではなく、十九、二十の年頃の女性となっていた。出会った頃の見た目ゆえに歳下の扱いをしてしまったことに謝罪するクロナに、思わずメルティが笑みをこぼしたのも今となってはいい思い出だ。

「で、その恋のキューピッドさんが、私になんの用なのかしら?」

「ふっふーん! よくぞ聞いてくれました!」

 聞かないかぎりは、目の前をこれ見よがしにふんぞり返りながら往復するつもりでいるだろうと思い、メルティは早々に問う。するとロベリアは待ってましたと言わんばかりに星を飛ばしながらウインクする。

「な~んと! 今日はメルティちゃんにプレゼントがあるんだよ~!」

「……誰から?」

「私から~じゃないや! 強いて言うならメイヤーから? いやいや、世界からかもね~」

 にししと笑うロベリアに、メルティは呆れた声を漏らす。

「一体なにをいただけるのかしらね……」

「それに関しては大丈夫! メルティちゃんは絶対喜ぶよ! これだけはホントのホントだからね」

 そう言うや否や、ロベリアはメルティの腕に絡みつき、そのまま広場の方へと引きずっていくのだった。

 

「はいとうちゃーく! ささ、それじゃあメルティちゃん、一度目を閉じて~」

「こんな所で……通行の邪魔になるでしょう」

「大丈夫大丈夫、さっきメガホンで時計台前使わせてもらいますねぇ~って大声で言っといたから!」

「すでに迷惑をかけていたわけね……」

 うんざりしつつも、メルティは瞳を閉じる。

 プレゼントと宣うからには、それはそれは大層なものなのだろう、と特に大きな期待もせず。

 少しの間瞳を閉じたままでいると、周りで小さな声がこそこそと何かを話しているのが聞こえてくる。

「あっこっちこっち。ああ~だめだめしゃべっちゃ、わかっちゃうから。せめてひそひそ話!」

「え……? そんな不安だなんて。大丈夫よ、彼女はずっと覚えているもの。忘れるはずなんてないでしょう」

「クロナちゃん! クロナちゃんもひそひそして!」

「あっあっ! ご、ごめんなさい!」

 その会話に、メルティはとっさに帽子を取り、顔を隠した。

 ――そんな、まさか。

 首を振る。

 ――そんなこと、あるわけがないでしょう。

 ――でも。

 メルティの様子を見て、ロベリアはあちゃー、と頭に手を当てて上を向く。そんなロベリアを、クロナはなだめる。

「んー、じゃあ、メルティちゃん、目、開けていいよ」

「……」

 意を決して勢いよく帽子を取る。すると、目の前には青年の姿があった。

 最初は、きょとんとして。次に、泣きそうに顔を歪めて。そしてすぐに、満面の笑みで。

「メルティ!」

 メルティがなにも言えずに突っ立っていると、青年は彼女に駆け寄り、一回りは小さなその体をギュッと抱き込んだ。

 以前聞いていた声とは、違うトーンだ。しかし、メルティには、今自分を抱きしめているのが、キーノだとはっきりとわかった。

 キーノはメルティが放心していることに気付き、慌てて身体を離す。

「ごっごめん! 僕、嬉しくて……」

「……」

「その……メルティ?」

 キーノがメルティの顔を覗き込むと、彼女ははっとしてキーノの顔を凝視する。そして徐々に眉をひそめ、途端に、わっと泣き出した。

「め、メルティ、大丈夫? ごめんね、驚かせたよね、ごめんね」

「ちっ……違、違うの……っ、私、私……」

 うまく言葉を紡げず、メルティはとっさにポケットからメモ帳を取り出すと、その紙を一枚切り取り、キーノに手渡す。キーノは頭上に疑問符を浮かべながらもそれを受け取り視線を落とす。すると、ペンを滑らせることさえしなかったはずの紙に、文字が綴られていた。見間違えるわけもなく、それはメルティの筆跡だった。

 

〝会えるだなんて思ってもみなかった。すごく嬉しいの。ごめんなさい、泣いてしまって、うまく喋ることができないわ〟

 

「メルティ……」

 キーノはメモ帳を眺めながら、メルティの部屋に残されていた一冊の本を思い出していた。あの本に残されたメッセージも、彼女がこうして書いたものだったのだろうか、と。

「うわわ、あんな使い方しちゃうんだ。ずるいなー」

「まあまあ、話せないんだもの、仕方ないわ」

「でも絶対言ってほしいって。お姉ちゃんにはわかっちゃうぞ」

 こそこそと話すロベリアの意見を肯定するように、キーノははにかみながら言う。

「じゃあ、落ち着いてからでいいから。君の声が聞きたい」

「ほらぁ。男ってああなんだよぅ」

「ロベリアさん、聞こえちゃうわ」

 クロナが慌てて制止するもメルティの耳には入ってしまったようで、メルティは二人の方をバッと見、そしてキーノの顔もバッと見たあと、耳まで真っ赤にして顔を伏せてしまった。

 よくわかっていないのか、キーノはロベリアたちの方をちらちらと見ながら、困ったような笑顔を浮かべていた。

 二人の様子を見てうんうんと頷くと、クロナとロベリアは早々に退散する事を決めたのだった。

 

 二人の足音が遠ざかると、メルティはゆっくりと顔をあげた。

「もう大丈夫なの?」

「……大丈夫」

 一度軽く鼻をすすると、メルティは長く息を吐く。そして、泣きじゃくっている間、ずっと考えていた事を口に出した。

「貴方とこうして出会えたことは、とても嬉しい……でも、何故? 何故ここに来てしまったの?」

「言いたいことはわかるよ、メルティ。僕が何らかの被害者になったんじゃないかって、そう思ってるんだよね?」

「……ええ」

 心配そうに見つめてくるメルティに、キーノは優しい笑顔を返す。

「でも、そうじゃないんだ。メイヤーが言うには、本来忘れるはずだった君とのやり取りをずっと忘れずにいたから、因果の糸が繋がっちゃったんだって。生涯君しか見ていなかったことへの、神様からの嬉しい当て付けかな」

 不甲斐ない様子でそう語るキーノに、メルティは目を丸くする。

「キーノって……本当に、私のことばかりなのね」

「……鬱陶しかった?」

「いいえ。だって私も、キーノのことばかりだもの」

「ほんとに?」

「ほんとよ」

「そっかぁ。……嬉しい」

 心からの声をもらし、キーノはメルティに頬ずりする。

「ねえ、メルティ」

「……なに?」

「キス、していい?」

 あまりにも急に言われたものだから、メルティはキーノの肩をバシバシと叩かずにはいられなかった。

「なっ。な、なあに、いきなり、そんな……! 人生経験の浅い私をからかうのはよしてよ……」

「からかってなんてないよ。……嫌なら、もちろんしない」

「嫌だ、なんて……」

 ――そんなわけ、ないけれど。

 そう呟こうとしたが、メルティはそっと口をつぐんだ。

 言い訳がましい言葉ばかり綴るのは、もうやめよう。

 メルティが黙ったまま俯いていると、キーノは彼女の顎に指を添え、ゆっくりと上を向かせた。

 キーノの顔を下から見上げるメルティは、ぼうっとその顔に見惚れていた。

 ――これは現実逃避かしら。

 ――睫毛、長いなぁ。

 しばらくお互いの顔を見つめていたが、やがて、どちらからともなく、唇を合わせた。