軋む歯車、永遠の少女と

 酷く軋んだ音が聞こえる。それは幻聴なのか、はたまた、現実に響く悲鳴なのか。

 かみ合わない歯車は、徐々に世界の均衡を崩してゆく。その果てに待つものは、絶望か、それとも――

 

 

 

✦ ✦ ✦

 

 

 

 もうすぐ、昼の一時がすぎる頃だった。昼休みに休憩をとっていた人々が再び仕事に戻るため、通り道である大通りは人の姿で溢れている。そんな人混みに押されながら、それでも必死に波を掻き分け、小さな影は広場へと向かっていた。

 彼女が目指す先では、とある新米のコトノハが、最近開花した固有能力を安定させる訓練を行っている。

「綺麗な色だなぁ」

 広場に集まる魂を眺め、キーノは率直な感想を漏らす。

 彼の首には綺麗な文字で研修中と書かれた札が下げられているので、ぼうっと人並みを眺めていてもさして不審がられることはない。しかしコトノハの制服を着ているため、研修の内容が気になるのか、ときどき物珍しそうに注視されることはあった。

 そして今も、こちらを見ている人影が一つ。しばらくは特に気にせず訓練に励んでいたのだが――それが自らの先輩に当たる人物だと気付き、キーノは元気よく手を振った。

「おーい!」

 キーノの声に驚いたのか、人影は一旦物陰に隠れるように去っていった。が、すぐにまた姿を現すと、辺りをきょろきょろと注意深く探ってから、早足でこちらに近づいてくる。

「こんにちは、クロナさん」

「え、ええと……こんにちは。呼び捨てでいいわ、慣れてないもの」

 キーノの姿をこっそりと覗き込んでいたのがばれてしまったことに加えて、さん付けなどという丁寧な呼ばれ方をされたクロナは、恥ずかしさに帽子のつばをぐっと下げる。

「そう? じゃあ僕も呼び捨てでお願いするよ! ところで、ずっとこっちを見てたみたいだけど……僕に何か用事?」

「そうね……そうなの。あのね……」

 キーノの問いかけに、クロナは下を向いて両手をギュッと握りしめる。何かとても言い出しにくいことがあるのか、顔を上げてはしょんぼりと俯くしぐさを繰り返していた。

「話しやすい人、呼んでこようか?」

「……ごめんなさい、あまり、他の人には聞いてほしくないの。ここに来るまでに、ちゃんと心の準備をしてきたつもりでは……いたのだけれど」

「いいよ。ゆっくり話して」

「ありがとう……」

 クロナは何度か胸に手を当てながら深呼吸をすると、小さい声で話し始める。

「キーノの持っている、魔法のこと、なのだけれどね」

「うん」

「その魔法で、一度私のことを見てほしいの」

 その言葉に、キーノは首をかしげる。

「どうして?」

「……だめ、かしら」

「そんな。だめではないよ。むしろ君が嫌じゃないのなら、僕に断る理由はないけど……」

 そこで一度言葉を切り、キーノはクロナの表情を窺い見る。

「見てほしいと頼むわりには、気が進まないって顔をしているから」

「……そう、ね」

 図星だったのか、クロナの手すさびが一瞬止まる。

「自分がね、一体何者なのか……最近、ちょっとわからなくなってきてしまって」

 クロナはキーノの隣に腰をおろすと、膝を抱えて遠くを眺める。

「わたしね、もう、五年もここにいるの。でも、一向に新しい旅立ちの日が迎えられる気配もなくて。ずっと我慢してたのだけれど、わたし、一体どんなものを背負っているんだろうって、怖くなっちゃったわ」

「そっか……それで、魂の状態だけでも確認しておきたかったんだね」

「ええ。ごめんなさい、自己満足に付きあわせてしまって」

 そう言って頭を下げる少女の頼みを、キーノは快く引き受けることに決めた。しかしその前に、一つだけ確認をする。

「でもクロナ、メイヤー・ボリスにはもう相談したの? コトノハの魂の状態を確認する、なんてことは、一応彼を通したほうが――」

「い、いいの! それは……しなくてもいいわ」

 いつも何かとボリスの肩を持つクロナの思わぬ反論に、キーノはかなり驚く。クロナ自身も、まるで自分らしくないということがわかっているのか、ひどく顔色を悪くしていた。

「あとでボリスから何か言われたら、わたしのせいにしていいから。実際そのようなものだし、だから」

「うん、うん、わかった。だから落ち着いて」

 クロナがあまりにも必死に訴えかけるものだから、キーノはすでに開きかけていた懐中時計をそっとしまう。

「……でも僕も、訓練中だから。それに、まだ他のコトノハの魂も見たことがないから、クロナがほしい結果に届かないかもしれないことを、あらかじめ言っておくね」

「ええ……」

 クロナが頷いたのを確認すると、キーノは静かに呼吸を整え、目を閉じる。

 キーノの能力は、対象の魂の状態を知ることが出来るものである。具体的にどのように感じているのかは本人にしか知り得ないものだが、例えばそれが健全であったり、あるいは崩れそうなほど傷ついているものであったりした場合、それは容易にわかるという。

 しかしそれはあくまでもこの世界に浮遊する大多数の魂に対しての難易度であり、コトノハのそれとは一線を画する。

 コトノハの魂は、時計塔がその記憶を一時的に奪うこともあり、状態を見ることはやはり簡単なことではない。そのため、キーノも失敗を前提に考えていたのだった。

 クロナは両手を合わせながら、キーノが顔をあげるのを待った。だが、彼は一向に顔をあげる気配がない。

 心配になった彼女がキーノに声をかけようとすると、それよりも先に彼が口を開く。

「……クロナ、やっぱりメイヤーに話をしたほうがいいよ」

「そんなに、悪いものが見えるの……?」

「ううん、違うよ。だけどこれは、僕に判断出来るものでは、ないかな……。僕が今見ているものが、正しい君の魂なのか、わからないんだ」

「具体的には、どうなっているの? 曖昧なものでも構わないわ。少しだけでも、ヒントがほしいの」

 クロナの言葉に、キーノは顔をあげた。しかしその表情は、おおよそ判断に困っているというだけではなさそうなものだった。

「本当に……聞きたい?」

 キーノは今一度問う。しかし、彼女の返事はかわらなかった。

「ええ。あなたに何が見えているのか……教えて」

 真剣にキーノの顔を見つめるクロナは、確かに結果を聞くことに怯えているようだった。しかし、けっしてそれだけではないということも、キーノには察することができた。

 彼女は、キーノの答えと、自身の中に蟠る何かを、結びつけようという気でいる。

「――僕に見えているものは……いや、僕は……何も見えていないよ、クロナ。君は確かにそこにいるし、君の魂があることも感じられる。けれど――」

「何も映らない。……そういうことよね」

「その通り……、クロナ!?」

 キーノが肯定したのを聞くや否や、クロナは突然何処かへ走り去っていった。角を曲がる際ぶつかった人影に謝罪することもなく。あまりにもらしくない彼女の行動に、キーノは自身が犯した過ちがどれほどのものだったのかと胸を痛めていると、不意に聞き慣れた声が鼓膜を揺さぶった。

「ちょっと、どうしたの? クロナ、走っていっちゃったわよ……?」

「メルティ」

 クロナがぶつかった相手は、ちょうど二人の姿を見かけこちらへ歩みを向けていたメルティ・ローズヒップであったようで、衝突したのが自分だということにも気付かず走っていく彼女の様子に強い違和感を感じているようだった。

「メルティ、僕……余計なこと、しちゃったかもしれない……」

「え……?」

 困惑する彼女にそれだけ言うと、キーノは急いでボリスへ連絡を入れたのだった。

 

 

 

「――キーノか。どうしたんだい」

 いつもと変わらぬ調子で呼び出しに応じたボリスだったが、キーノの落ち込んだ声音とその内容にそっとペンを置く。

「いや、君は悪くないさ。あまり気を落とさないでくれ。――ああ。よく連絡してくれたね。うん。うん。それじゃあ」

 通信を切り、大きく息を吐く。すると、傍で懐中時計を弄っていたノーレッドが大きな耳を動かしながら、訝しげにボリスに視線をやる。

「おいボリス、今の」

「……」

 ボリスはノーレッドの声に応じず、そのまま立ち上がると部屋の扉に背を向けた。

「……お前、」

 ノーレッドが何事かを言わんとすると、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開く。ボリスはそれがわかっていて、あえて背を向けたのだった。

「どうして……どうしてなにも話してくれないのよ!」

 クロナは部屋に入ってくるなり、いきなり大声でそういった。大声と言っても同じ年代の子供に比べれば小さいものだったが、クロナがこんなにも大きな声でものを訴えるのは、これが初めてだった。

「ボリス、わたし、キーノに魂を見てもらったのよ。そしたら、なにもないって。なにも映らないって! ボリスは最初からわかってたんでしょう? だから、わたしが鏡を持つのだって嫌がったんでしょう!」

「……そうだとしたら、なんだって言うんだ」

「やっぱり……っ」

 目元に涙をいっぱいに浮かべながら、それでも堪らえようと必死に堪えるクロナが背後にいるというのに、ボリスは頑なに振り返ろうとしない。そのことで、ますますクロナは悲しくなる。

「だったら、なんでそうだとはやく言ってくれなかったの……? わたしの魂が見えないのなら、わたしがあとどれくらい頑張ればいいかなんてわからないじゃない! なのに、あなたはいつも、もう少し、もう少しだっていって……嘘ばっかりつくの! 私が固有の魔法をもっていないのだって、全部、そこに起因しているんでしょう……っ」

「ま、待てよクロナちゃん、それには事情があってだな……」

「ノーレッドさんは黙ってて!」

 大きな声で制され、ノーレッドは一瞬怯む。その間に、クロナは続けて口を開く。もう、自分で抑えられないところまで、感情の波が押し寄せてきているようだった。

「わたし、ボリスのこと信じてたのに、もう信じられなくなっちゃうわ! 本当のこと、ずっと黙ってるのはなぜなの? わたしのこと、不安にさせて面白がってたの……?」

「ッそうじゃない! そんな訳がないだろう……!」

「じゃあなぜ!?」

「言った所で、それを全て忘れていくのはいつも君の方じゃないか!!」

 ようやく振り返ったボリスは、声を荒げて机を叩く。その音にクロナは驚いて言葉を飲み込みかけたが、そのまま口から吐き出した。

「忘れるわけがないでしょう! そんな大切な事を言われたら……――」

 そこまで言うと、クロナは今度こそ反論の言葉を失う。

「うそ……でしょう……?」

 忘れるわけがないでしょう。

「わたし、忘れているの……?」

 そんな大切な事を。

「おいおいおい、喧嘩すんなって……!」

 口元を押さえて青ざめるクロナをみてなんとかなだめようとするノーレッドだったが、彼の声はもうどちらの耳にも入っていないようだった。

「……っ」

 ついに堪えられずこぼれた涙を振り払うように、クロナは開きっぱなしの扉をくぐり、廊下の先へと走り去ってしまう。

「おいボリス! お前追いかけなくていいのか!?」

「……」

「この……ッ、意気地なしが!」

 声をかけても動く気配のないボリスに痺れを切らしたノーレッドは、大きな声で彼を罵倒し、クロナのあとを追って部屋の外へと飛び出していった。

 一人部屋に残されたボリスは力なく椅子に座ると、机に頭を打ちつけ、小さく呟く。

「……最低だな」

 ボリスはもう一度机を叩くも、それ以上の行動は起こさなかった。

 

 

 

✦ ✦ ✦

 

 

 

 もう、なにも聞きたくない。

 もう、なにも知りたくない。

 もう、どこにも行きたくない。

 どこへ行ったって、何を知ったって、何を聞いたって。もう、すべてが無意味なことにしかならないのなら。

 クロナは、ただひたすらに走っていた。誰かにぶつかっても、足を引っ掛けて転んでも、無我夢中で、がむしゃらに。

 足を止めた時には、すでに人の姿は見えなくなっていた。それどころか、見慣れた古い建物も、時計塔も、何もかもが視界から消え去っていた。気が付くと、腰に下げていたはずの大きな鞄も、自身と時計塔を繋ぐ懐中時計さえも、すべてが消えていた。

 不安を覚え、せめて懐中時計だけでも探そうとしたが、それも、すぐにやめてしまった。

「どうせ……」

 ――どうせこのままコトノハを続けたって、きっと前にも後ろにも進めないんだわ。

「うう……」

 悲しくて悲しくて、涙ばかりが出る。

 ボリスに言った言葉が、何度も頭の中で反響している。酷いことを言ってしまった。信じられなくなるなどと。

 彼の口振りから、おそらくボリスは、何度も真実をクロナに伝えようとしたはずだ。しかし、その度に、彼女は忘れていくのだ。

 自分を追い詰めていたのは、自分だ。そして、温厚なボリスが声を荒げてしまうほどに、彼を追い詰めたのも、また、自分だったのだ。

「もう嫌……」

 きっと、こんなことがあった、それすら自身はまた忘れていくのだろう。

 何もかもが消え失せた空間で、少女は大声を上げて泣いていた。誰に届くわけもないその声は、遠くの方まで響いている。何もない空間は、されど、どこまでも広がっているようだった。

 一瞬、どこかで何か音がしたように思え、クロナは泣き濡れた顔をあげる。気のせいではない。その音は、徐々にこちらに近づいてくるようだった。

 やがて、一つの人影が、クロナの傍にぽつりと灯る。クロナは涙を拭いながら、その人物を見上げた。

「やあ。こんなところで泣きじゃくって、一体全体、なにがあったんだ?」

「あなたは……?」

 クロナが問うと、人影は嬉しそうににこりと笑った。

 

 

「おいボリス! おい! やべーぞやべーぞ、とんでもなくやべえ!」

 先刻部屋を飛び出していったはずのノーレッドが、血相を変えて再び部屋の中へと転がり込んでくる。その様子に少しも視線をくれることなく、落ち込みきった声をだす。

「騒がしいよ、ノーレッド」

「これが騒がしくせずにいられるかってんでぃ! おい、いいからこれを見ろこれを!」

 地団駄を踏むノーレッドに、苛立ちを抱えたままのボリスは自棄な態度で机から身を乗り出す。

「ああもう、なんだって言うんだよ! 僕は考え事をし……て……」

 しかし、ノーレッドがボリスへよこしたものに気付くと、すぐに顔を青くさせた。

 ノーレッドの小さな身体を押しつぶさんとするそれは、見まごうことなく、クロナが先ほどまで所持していたはずの鞄だった。その中には懐中時計も入っており、ボリスは大きく狼狽する。

「どれだけ事態がヤバい方向に進んでるか理解できたなら、さっさと部屋から出るんだなこのウスノロが!」

「そんな、いや、そんなはずが……」

「そんなはずが、じゃねえ! 今もうすでに起きてんだろうが!」

 ノーレッドはボリスの足を蹴りつけながら怒鳴る。

「オメー、クロナちゃんがあっち側に行っちまったら、もう戻ってこれないかも知れねーんだぞ!?」

「ま……、だ、あっち側へ行ったと決まったわけじゃないだろう」

「お前はまたそうやって最悪の事態から目を逸らす! そんなんじゃ、目を合わせた時にはもう手遅れになってんだよ!」

「君になにがわかるっていうんだ! 僕だっていろいろ考えて……!」

「うるせえ!」

 完全に冷静な判断力を失っているボリスを落ち着かせようと、ノーレッドは高く飛び上がってその頬に激しい一撃を喰らわせる。

「い……ってえ……」

「ちったぁ目ェ覚ませヤボテン! オメーがこういう時すぐに行動できないとんだ臆病者だってことはな、オメーがここに来てから今までずっと見てきてんだ、嫌でもわかるぜ! だからオレは気付け役をやってきた、そうだろう!」

「……」

「早いとこ腹ァくくって、しゃんと立ちやがれ! それでもオメー、クロナちゃんの――」

 ノーレッドが言い切る前に、ボリスが右手をあげてそれを遮る。

「もういい。わかったから――それ以上は、言わないでくれ」

 頭を押さえて呻くように言うボリスに、ノーレッドはそれ以上なにも言わなかった。

「……おう」

 ボリスは緩慢な動作で、しかしやることを決めたのか、はっきりとした声でコトノハたちへ通達を出す。

「すまない皆。至急広場へと集合してくれ。僕のせいで――クロナが、いなくなった」

 

 

「私は――かつて君たちと同じ人間だったが……今はそうではないために、語る名は持たん。ただ、遠くから泣き声が聞こえたものだからこうして来てみたんだ。空耳かとも思ったが、そうではなかったようだな」

 くるくると何かを振り回しながら、彼女は嬉しそうに言った。よく見ると、彼女が持っているそれは、コトノハだけが所持を許される、懐中時計だった。

「あなた、コトノハなの……?」

「そう。ただし、かつてコトノハだったもの、だ。人から人へ、想いを伝える事ができなくなったものは、最早コトノハとは呼べんさ。これも、もうガラクタと大差ないシロモノと化してしまった。彼には悪いことをしたな」

「彼、って」

「おそらく君は知らん。もうずっと、ずうっと前に、私達の面倒を見ていた人だからな。……いや? そうでもないか。もしかしたら、君は知っているかもしれん。うん、そんなような気がする」

 クロナは彼女の言っていることがよくわからず、視線を下へ落とす。いつの間にか涙は止まっており、こぼれ落ちる雫が見えない地面に染みこむことはなかった。

「君はどうしてこんなところへ?」

「……わからない。無我夢中で走っていたら、いつの間にかここにいたの」

「なるほど。……意図的にこちらに来たわけではないというのなら、今すぐ帰った方がいい。ここは、人が住むにはあまりにも寂しい場所だ」

「帰っても……もう、合わせる顔がないわ……」

 クロナが緩く首を振りながらそう言うと、彼女はふむ、と首を縦に振る。

「そうやって君はまた、置いていってしまうんだな」

「また……? あなた、わたしを知っているの?」

「いいや、直接は知らんよ。しかしこんなところにいると、たまに触れるんだ。誰かの心に。君を想う誰かの心にも、触れたかもな」

 冗談めかして、彼女は笑う。しかしクロナの表情は相変わらず暗いままだ。

「わたし、何度も酷いことをしてきたのね……」

「自分の我儘を通せば、自ずとそうなる。それは酷いと言うには、あまりにもしかたのない事だと――私は思うがな」

「……あなたは、わがままで人を傷つけた事はある?」

「ああ。それも沢山な。私はとても我儘なんだ」

 これっぽっちも悪気を感じさせない笑顔で、彼女は笑う。クロナは内心、これくらい開き直れたらと思ったが、それは少し違うようだった。

「私は、自分の我儘を叶えるために、いろんな人の心を犠牲にした。されど、それを後悔したことはない。ただの一度も」

「どうして……?」

「それほど、通したい我儘だった。他ならん理由だな」

 彼女はそこまで言うと、持っていた傘で地面を軽く叩いた。

「さて、一つ問おう。君が今抱えている我儘は、人の心を犠牲にしてまで、叶えたいものなのか?」

「それは……」

 クロナは考えるように俯いた。しかし、すぐに首を振る。

「だけど……わたしは、もう……どこにもいけないわ」

「なぜそう思い込む?」

「大切なことをね、言われていたの。何度も。でもわたしは、その度に忘れてしまう。選択肢があるのだとしても、それがなんだか分からないの」

「ふむ……?」

 クロナの話を聞き、彼女は首を傾げる。そしてそのまま、クロナの周りをくるくると歩き始めた。やがてぴたりと歩みを止め、一言。

「でも君は、今は覚えているんだろう?」

 と、言い放った。

 その声に、クロナははっとする。

「……覚えているわ」

 何故、と問おうとして、クロナは彼女の顔を見上げる。すると彼女は、なるほど、と首を縦に振った。

「この世界は、そちら側――つまり君がいた死者の世界でも、生者の世界でもない場所。一度は聞いたことがあるだろう? 境界をあやふやにすると、どこにも戻れなくなると。それはどこから? それはここから。この場所は、死と生の間にある、特殊な空間なんだ」

「狭間の、世界……」

「そう。そして君は今、時計塔に唯一繋がる手段である懐中時計を手放しているようだな。ので、時計塔が奪うはずだった君の記憶は、今も無事なわけだ」

「時計塔が……わたしの記憶を奪っていたの……」

 悲しそうに呟くクロナに、彼女は執り成すように言う。

「ああ、どうか彼を恨まんでやってくれ。彼は大した過保護でね、可愛い魂が心を痛めているのを見ていられんかったのだろうな。だから君が悲しみに心を染めるたび、その要因を君の心から一時的に取り除いていた」

「じゃあ、元の世界に戻ってしまえば、結局わたしはまた全て忘れてしまうの……?」

「どうだろうな。言ったとおり、時計塔は過保護だ。だからこそ、悲しい記憶であっても君が失いたくないと心から願えば、それを横から掻っ攫っていくようなまねはせんと思うが、な」

 彼女は傘をくるくる回しながらのんきな声を出す。

「なんにせよ、身体を失った存在なのだから。心だけが我々の全てだよ。今一度正直に、自分がどうしたいか考えてみるといい」

「でも……」

「嫌になったら、またここに来るといい。帰るのは難しくても来るのはわりと簡単だからな。……やれることをやらんで諦めるのは、自分への一番の裏切りだぞ」

「そう、ね……」

 クロナはしばらく考えあぐねていたようだが、やがて首を縦に振り、立ち上がる。

「ありがとう。わたし……帰ります。逃げてきたんだもの。ちゃんと、謝らなきゃ」

「そうか。なら、そうするといい。君なら、ちゃんと戻れるだろう」

「……あなたは?」

「私は、ここにいる事こそが私の我儘だからな。まあ、たとえ帰りたくなった所で、もう戻れはせんよ。意識が溶かされないところをみると、この世界も何かしら私を必要としているのかも知れんしな」

 何もない場所だが、何もないわけではない。哲学じみた事を言いながら、彼女はどこかへ向かって歩き出す。

「さあおいで、出口まで送ってやろう」

「道が、わかるの……?」

「わかるさ。君が入ってきた場所、それが出口だから。君の魂は死者のそれとは違う。よく見えるんだ」

「でも、私の魂は見えないのだと、そう言われたわ」

「表の世界ではそうだろうが……こんなところに長くいると、見えんものを見ることができるようになってきてな」

 不思議そうに首を傾げるクロナの頭をもふもふとなでて、彼女は楽しそうに笑う。

「ああ、でもそれは私だから楽しめるものであって、普通の精神を持っていれば、かなりの苦痛だろうな。間違っても楽しいことだとは思わんでくれ」

「あなたはさっき、ここにいるのは自分のわがままだといったけれど。じゃあなぜ、こんな苦しい場所に来ようと思ったの?」

「そうだな……しいて言えば、……いや、やめておこう。今度会う時までに、適当に答えを考えておいてくれ」

 シェルトは笑顔で提案するが、クロナは困り果てる。

「今度、と言うのはいつ……?」

「いつでもいいさ。来世でも、再来世でも。どこかに私の姿を探すといい。そうしたら、また私は君に会える。なにせ私はこの世界同様、どこにも居らんが、どこにだっているんだから」

 

 やがて目的地が近づいてきたのか、彼女はゆっくりと歩みを止める。クロナには一筋の光も感じられない場所だが、彼女にはおそらく違うものが見えているのだろう。

「……なるほど。まったく、時計塔も過保護がすぎるな」

 愉快に笑い声をあげ、彼女は何もない空間を傘の先端でなぞる。

「どうやら、あちらも君のことを探しているらしい。想いが相互なら、失敗はないだろう。さあ、行くといい」

 軽く背中を押され、クロナは見えない扉へと一直線に飛び込んだ。

 クロナの姿が消えたことを確認すると、一人残された彼女は満足気に微笑み、傘をさし、またどこかへと歩き去っていった。

 

 

 

 コトノハたちの緊張は、クロナの失踪から時間が経過するたび、徐々に顕著になっていく。懐中時計を手放している以上、彼女を見つけるにはその姿を探すほかに方法はない。

 クロナを知っている街の住人達にも手を貸してもらい、大人数で捜索に当たる。しかし彼女は一向に見当たらず――次第に、諦めたほうがいいのではないかと言う声がちらほら上がり始める。

 いつもはすぐ頭に血を上らせるノーレッドだが、この日ばかりは冷静であり、そのような呟きに対しては「オメーは諦めていいぜ」と一言伝えるのみで、それ以上は時間の無駄だとでも言うようにクロナの捜索に戻るのだった。

 彼女の失踪の原因を、ボリスとの諍いとしか伝えられなかったコトノハたちは皆一様に驚いていたが、ここの所クロナが俯きがちだったこともあり、その内容に触れることはなかった。ロベリアやシオンは何か言いたげな顔でボリスに視線を投げていたが、今はそんな場合ではないと誰よりもはやく駈け出した。

 そしてボリスは一人、時計塔の最上階で彼女を呼び続ける。当然彼自身も捜索に励んでいたのだが、万が一、本当にクロナが狭間に迷い込んでしまったとしたら――あとは彼女がこちらに帰りたいと望み、そしてこちらからも彼女が帰ってくることを望む、心同士の引力にかけるしか、術はない。そのため、ノーレッドによって強制的に探索班から外されたのだ。

 しかしその術も、ただの希望的観測に過ぎない。これまで、狭間の世界から帰ってきたものは一人もいないのだから。

「クロナ……」

 人の心に一番近い場所で、ボリスは祈る。もう自分の声など聞きたくもないかもしれない。顔も見たくないかもしれない。そんな想像で諦めてしまわぬように、一心に。

 

 突如、懐中時計を通じて、誰かの通信がボリスへと入る。それは、柔らかな雰囲気を脱ぎ去ったロベリアの怒号だった。

「メイヤー、応答して!! クロナちゃんが見つかったよ! 一刻も早く、北の時計台まで来て!」

 

 

 

 ロベリアの報告を受け、ボリスはすぐに道を開き目的の場所へと赴く。報告から一瞬を置いて現れた彼の姿を見て、捜索に当たっていた他のコトノハたちは、頭を軽く下げ、元の業務へと戻っていく。

 ロベリアはボリスの顔を見て、ひとまず安心したように息を吐いた。

「……来ないかと思ったよ。ほら、クロナちゃん、メイヤー来たよ」

「……ボリス……?」

 まるで眠りから覚めたばかりのようにぼんやりとしながらも、クロナは彼の姿を捉える。しかし、ボリスは彼女がどんな目で自身の事を見ているのか、その目を合わせて確認することを躊躇った。

 見かねたロベリアは、ボリスの背中をぐいぐいと押して、クロナの傍に座らせる。

「私はもう戻るよ、何かあったらすぐ呼んでくれていいからね。ちゃんと仲直りするんだぞっ」

 言いたいこともあるだろうが、彼の背中を軽くはたくと、ロベリアはそのまま懐中時計を開き、何処ぞへと消えていった。

「……」

 下を向いて黙りこくるボリスの肩に、クロナはそっと手を置く。そしてそのまま、抱きつくように腕を回した。

「クロナ」

「……よかったぁ」

 嬉しそうに、そして今にも泣いてしまいそうな声で、クロナは言う。

「わたし、帰ってきても、よかったのね……」

 その言葉に、ボリスは息を詰まらせる。

「あ……当たり前、だろう……! 君が、帰ってこなければいいなんて……誰が……そんなこと、思うもんか……!」

 叱るように口を開いたボリスだったが、語尾にいくに連れどんどんと涙声になっていく。彼女の無事を確認して緊張の糸が解けたのか、ボロボロと涙を流しながら、クロナを抱きしめ返す。

「よかった……っ、無事で、いてくれて……本当にごめん……ごめん……っ」

「酷いことを言ったのは、わたしの方だわ……」

 泣きじゃくるボリスの頭を、クロナはそっと撫でる。

「何度も何度も、あなたは諦めずに言ってくれたのに、わたしは忘れてしまった……どれもこれも、わたしがすぐ、だめになってしまうから。時計塔にまで、気を遣わせてしまっていたのね……」

 どうしてそれを、と言いたげな顔で、ボリスはクロナと目を合わせる。すると、彼女は遥か遠くの時計塔に向かって、小さく囁いた。

「でも、もうそんなことはしなくてもいいわ。どんなに辛くても、わたし……もう、忘れたくないの。自分が楽になる分、誰かが苦しむなんて――そんなの、わたしはいやよ……」

 ――だからもう、わたしからなにも奪わないで――

 言葉の最後は、胸の中で呟いた。

 時計塔はその声を聞き入れたのか、それとも尚も彼女から記憶を奪い続けるのか。まるで決めかねているかのように、沈黙していた。

 クロナは時計塔にもう一度しっかりと願うと、その視線を再びボリスへと返す。

「これまでわたしにお話ししてくれたこと――もう一度、ちゃんと聞かせてくれる?」

「……だけど、君は」

「ううん。わたしの意志が本物なんだって、時計塔に、わかってもらわなきゃ」

「クロナ……」

 彼女の懇願するような眼差しを受け、ボリスは必死に考える。

 もうやめようと、何度も思ったことがある。その度に、もう一度、もう一度だけと、彼女に真実を伝えてきた。しかし、いつも時計塔がすべてを無に帰してしまうのだった。

 正直な思いを白状すれば、ボリスは、かなり怯えていた。だからこそ、今度は別の方法で彼女を救おうとしていた。

 彼女と今一度話をするか。あるいは、自身の思惑を優先するか。どちらが正しいのか、全くわからない。

 それでも。

「――わかった……」

 彼女に頼まれれば、ボリスは決していいえとは言えないのだった。

「わかったよ、クロナ。……話をしよう」