最後の言の葉

 tick...tack...

 tick...tack...

 tick...tack...

 時計塔は未だその沈黙を守り続け、街には奇妙極まりない静けさが広がっている。一人の少女が行方不明となった後に現れた静寂に不吉なものを感じている住民たちに、ただの点検中だという言い訳はどこまで通用するだろうか。

 まだ、皆に話すべきではない。ボリスはそう考えていた。せめて、彼女がこの真実を、現実として受けいれることができるまでは。

 ボリスの部屋へ戻った二人は、ひとまず心を落ち着けることに専念していた。クロナは椅子に座って、じっと瞳を閉じている。ボリスは、まだバラバラの部品として机の上に並んでいる懐中時計を眺めていた。

「よう」

 音を立てずそっと部屋の中へ入ってきたノーレッドが、ボリスの身体を伝ってその肩へと登る。

「もう話はしたのか?」

「いや、まだだよ。……なかなか心の準備ができなくてね……」

「まあ……無理もねえやな……」

 ノーレッドは鼻から息を吐く。

「オメーがよぅ、クロナちゃん相手にあんな大声出しちまうなんて思わなくてな……オレもびっくりしてついつい辛辣になっちまった。悪かったな」

「構わないさ。詫びるべきは僕の方だ」

「いーんや。オメーの気持ちを汲んでやれなかったのはオレの落ち度でい」

 はたはたと耳を動かし、ノーレッドは椅子に座っているクロナを見やる。

「クロナちゃん、大丈夫かねぇ……」

「……」

「諦めろ、なんて言う気はさらさらねーけどよぅ……あんま根詰めんなよ。オメーが潰れちゃそれこそオシマイだぜ」

「……うん。わかってるさ」

 ボリスは首を縦に振る。たとえ諦めろと言われても、これだけは簡単に諦めきれることではない。この世界で初めて彼女と出会った時、自身が心に決めたことを、ボリスは再度確かめる。

 諦めたら、本当に何もかもが最悪の結果で終わる。

 手が震えるのをなんとか抑えながら、ボリスは決心を固め、目を開く。

「クロナちゃん、クロナちゃん」

 椅子の脚をよじ登り、背の部分からクロナを呼ぶノーレッド。しかし彼女からの応答はなく、頭を捻る。

「んん、寝ちまってるのか? クロナちゃん、クロナちゃーん」

「ん、んん……」

 ノーレッドが膝の上で何度か跳ねていると、ようやくクロナは目を覚ます。何度か瞼を震わせたあと、紫色の双眸がノーレッドの姿を捉える。

「……あ、あら……ごめんなさい、わたし、寝ていたかしら……?」

「眠れるくらいに落ち着いたってんならそれが一番でい! ボリスのヤローも、だいぶん落ち着いたみてーだからな。そろそろお話、してやんな」

「ええ、そうね……ふああ」

 返事をしつつ、クロナは何度も欠伸を漏らす。

「起きてんの、辛かったらまだ寝ててもいいぜ?」

「ううん、ごめんなさい、大丈夫……と言いたいところなのだけれど……どうしてこんなに眠いのかしら」

 小首を傾げながら、また一つ大きな欠伸をする。

「……あんまり時間、ねえのかなァ」

「……そうかも、しれないな……」

 ノーレッドとボリスは、お互いに顔を見合わせる。何か閃いたのか机の上に駆け上がると、ノーレッドは散らばっている懐中時計の部品を適当に合わせ、蓋を閉める。そしてそれをクロナの元へと運んだ。

「これは……?」

 懐中時計はすべて時計塔と繋がっているという知識があるクロナは、僅かに怯えたような表情を見せた。しかしノーレッドはそれを否定する。

「大丈夫だぜ、クロナちゃん。こいつはまだ起動させても、組み上がってもいねーからな。まあ……お守りみたいなやつだ。こいつの事は、信じてやんな」

 彼の言葉に素直に頷き、クロナは未完の懐中時計を手のひらに乗せて眺める。何の装飾も施されていないそれは、なぜか不思議と既視感を覚えるものだったのだが、しかしその感覚の正体は掴めなかった。

 ――時計塔が預かっている記憶の中に、答えはあるのかしら……。

 クロナは自身のほっぺを強く叩くと、椅子から立ち上がる。貧血を起こしたようにふらりとよろけるも、再度椅子に座ることはなかった。

「く、クロナちゃん、無理しなくてもいいぜェ」

「ありがとうノーレッドさん。だけど、椅子に座ったままだと、大切なお話中にまた眠ってしまうかもしれないわ……」

 膝から両手に拾ったノーレッドをボリスの机の上に下ろし、クロナはしっかりとボリスを見据える。

「お待たせしてごめんなさい、ボリス。もう大丈夫よ。お話……してくれるかしら」

「ああ」

 ボリスもしっかりと頷いてみせる。

「それじゃあ、今クロナが一番気になっているだろうことを……話そうか」

「お願いするわ」

 先を促され、ボリスは口を開く。

「君の魂が見えない事、君が自身の魔法を使えないこと、そして君が何年も巡れずにいる事……その全ての理由は、君の魂が今ここはいないからなんだよ、クロナ」

「どういうこと……?」

「君の魂は、まだ別の場所にある。影だけがこちらの世界に来てしまったんだ。だから、存在は感じられても、魂そのものを視認することはできない。だから、キーノにも君の魂が見えなかった。つまり……君の魂は、生者の世界にいる。まだ、君は生きているんだ」

「……そう」

 クロナは一言返事をすると、顔を両手で覆い俯いた。

「クロナちゃん……」

 少女の様子を窺いながら二人はなんともいえぬ気持ちで心を満たしていた。

 また、クロナは忘れてしまうだろうか。

「そう。……そうね、そうよね……」

 しかし、彼女は泣き濡れた声で言う。

「こんなの、時計塔が記憶を攫ってしまうのも、無理ないわよね……どうしていまさらそんなことを言うの、なんて……思ってしまうんだものね」

 彼女の言葉に、歯車が僅かに軋む。

「違うの、わかってるの。ボリスはずっと伝えてくれていたんだもの、今更なんかじゃないわ……! なのに、わたしが……全部忘れたわたしが、勝手にそう思っていたのよ……」

「時計塔が君の記憶を奪ったんだ。君が悔いることはない。ましてや、時計塔が悪いというわけでもない。彼は君のことを心配して、そんな措置をとったにすぎないんだから」

「そう、そうなのよ。……だから、これを時計塔のせいになんてできないわ……最初からわたしが、ボリスの言うことを受け入れられていれば……誰も辛くなんてならなかったんだわ」

 声を上げて泣きながらも、クロナは心のなかで必死に時計塔へ語りかけていた。なにも奪って行かないで、わたしは受け入れなければいけないの、と。

 その祈りが届いたのかはわからない。しかし、彼女の記憶がすぐに白紙に戻ることはなかった。

「ありがとう、ごめんね……」

 返事をするように、時計塔は長い沈黙を破り、頂きの鐘をゆっくりと鳴らした。

「可愛い子には旅をさせよ、だぜ。時計塔よぉ」

 ノーレッドが茶化すように言うと、クロナは不意に笑う。

「意味合いが少し違うような気もするけれど……そうね、辛いことから逃げても、またあとからやってくるだけなんですものね」

 ぐすぐすと鼻を啜りながらも、ハンカチで目元を拭い、顔をあげる。

「これは、長い夢の様なものなのね……」

「そう思ってもらうのが、一番後腐れがなくていいかもしれないな」

 ボリスの言葉に、突然ノーレッドが飛び上がる。

「お前! いいわけ無いだろうが!」

 あまりに慌てた様子でボリスに頭突きを食らわすノーレッドに、クロナは慌てて付け足す。

「だ、大丈夫よノーレッドさん、夢とはいったけれど、夢じゃないことくらいはわかっているつもりよ」

「クロナちゃん……じゃなくて、違うんだよォ、そうじゃねーんだよォッ!」

 じたばたと駄々をこねるように暴れ始めるノーレッド。しかし口に出せないことなのか、なかなか、なにが違うのかという話をしようとしない。

「ノーレッド」

 名を呼ばれ、ノーレッドはピタリと動きを止める。何度か「だがよォ」「悲しいだろォ」と呟いていたが、やがて静かになるとその場にぺたりと座り込んだ。それを見届け、ボリスは話を再開する。

「いま、君が持っている懐中時計があるだろう?」

「これのこと?」

 クロナは先程手渡された懐中時計を指す。

「ああ。それが組み上がると、君の魂を現世に完全な状態で返してやることができるんだ。でも、その懐中時計は、条件が揃わないことには、どうしても完成しないようでね」

「その条件って……」

「君が、もう一度生きたいと、心から願うこと」

 どこか遠くを見ながら、ボリスは呟く。

「突然、実は生きているだなんて伝えられて、それを甘んじて受け入れられる人間なんていないさ。とてもむずかしいことだと思う。だけど、僕はやっぱり君に生きていてほしい」

「それを、ボリスはずっと、願っていたの……?」

「……僕にとっては、さほど長くない時間だよ」

「どうして……わたしのために、そこまでしてくれるの?」

 率直に問うと、ボリスは困ったように笑う。

「我儘だよ。僕の」

 しかし、それ以外はなにも言わなかった。

「ここで今すぐに、なんて言わないよ。それに君が本当に願わなければ意味は無いんだ。ゆっくり、考えてくれ」

「ええ……わかったわ」

「廊下と一階は繋いでおくから。君の懐中時計は置いていくといい」

「ありがとう」

 クロナは廊下の先に魔法陣が出現したのを確認すると、そちらに向かって歩いて行くのだった。

 その背中を見送り、ノーレッドは閉じていた口を開く。

「……なんで、自分の正体を言ってやらないんでぃ」

「万が一にも、クロナがここに残ると言い出さないためにだよ。それくらいわかってくれ」

「クロナちゃんが目覚めたあと、そのことを悔やんでもか?」

「……きっと、彼女ならわかってくれるさ」

 ノーレッドは煮え切らない態度のボリスをベシベシと叩きつつも、彼の選択を無下にすることを言えるはずもなく、ただただ気を揉むばかりであった。

 

 

 

✦ ✦ ✦

 

 

 

 ――どうしよう。……どうしよう?

「どうしよう……」

 ぽてぽてと歩みながら、クロナはぼんやりと霞がかる頭で必死に考える。

 ――どうしよう?

 ――どうしたも、こうしたも。

 悩み、悩む。

 生きるべきか、死ぬべきか。今つきつけられている問題は、まさにそれである。

 生者の世界に戻ることは、途切れかけた生を再開するということだ。この世界に残るということは、すなわち、改めて死ぬということだ。

 早く生まれ変わりたいと望んだことはあった。しかし今、自身がまだ生きていると告げられて、どちらを選択するとしても、大きく迷ってしまう。

 生きるにしても――クロナは、時計塔に生前の記憶を奪われている。つまり、自身の死――正確には、魂の影のみがこちらの世界へ来てしまった原因だ――は、何らかの悲劇によるものであると、容易に想像できる。その悲劇を背負ってまで、自身はふたたび生きることができるのだろうか。そんな不安が、クロナにはあった。

 あまつさえクロナは、ボリスに自身の生存を伝えられた時点で、相当に心を病んでいたのだ。

 そのため、この状態でまた生きたいかと問われれば――それは、いいえだ。

 ボリスは、どうして彼女に生きてほしいのかという、肝心なところには絶対に触れさせようとしない。それが何故なのかということも、彼女の気持ちを傾かせる要因となっている。

「どうしよう」

 またポツリと呟く。考えれば考える程、頭の中が空っぽになっていく。

 ――このまま生を手放すのだとしたら、それはやっぱり、裏切ることになるのかしら。

 ――自分を。そして、ボリスを。

 ――そんなのは嫌だけれど。

 心から願わなければ意味は無い、と言われた事を思い返す。自身がそう思えるためには、なにが必要なのだろう。

 思考を巡らせながら、クロナは欠伸を漏らす。

「眠いなぁ……」

 自身では深刻に悩んでいるつもりなのだが、如何せん眠気が邪魔をする。

 クロナはふと、ノーレッドの呟きを思い出す。

(……あんまり時間、ねえのかなァ)

 もしかしたら、元に戻るにも、期限があるのだろうか。もしそうだとしたら、すでに悠長に考えている時間など、ないのかもしれない。

 考え込んでいたら、このまま消えるのだろうか。また、なにも言わずに。

 ――また?

 狭間の世界で出会った少女の話を思い出したのかと思ったが、そうではない。徐々に、ほんの少しずつ、何かを思い出している。

 それは、決してよい兆候だとは思えなかった。

 

 

 

「クロナちゃん!」

 突然のノーレッドの声に、ボリスはすぐに顔を上げる。もうしばらくかかるだろうと思い込んでいたため、扉の前で佇む少女の姿を、一瞬幻か何かと勘違いしそうになる。

「クロナ……早かったね。もういいのかい」

 椅子から立ち上がり傍へ寄ると、急にクロナはボリスに抱きつく。

「……クロナ?」

「あのね、ボリス。今から言うこと、怒らないで聞いてね?」

「……いってごらん」

 頭を撫でながら先を促すと、クロナは顔をあげ、口を開く。

「わたし、自分だけでは、ずうっと決められそうにないの。それでね、考えてみたわ。ボリスはずっと、わたしのことを見捨てないでいてくれた。ずっとわたしの味方をしてくれていた。そんなあなたが、今更わたしにいじわるな嘘をつくなんて、きっとないと思うの」

「本当に、そう思ってくれているのかい」

「もちろんよ。疑ったりしたのは、わたしのせいなんだもの……」

 ぎゅっとボリスの服を握りしめ、辛そうに吐き出した。

「だからね、ボリス。わたし、あなたの一言で、全部決めようと思うの。だから、質問に答えてね。ボリスは――本当に、わたしに生きていてほしいと、願ってくれるの?」

 真剣な眼差しで問われ、ボリスは瞳を閉じ、考える。しかしいくら考えようとも、自らの望みなど最初から決まっているのだ。

 瞼を開き、ボリスは言う。

「ああ。僕は、君に……生きてほしい。心から、そう願うよ」

「……わかったわ。あなたが、そう望んでくれるのなら……――」

 クロナは、静かに祈った。この人のために生きたいと。すると、手の中で、光が溢れるのを感じた。実際には視認することのできない暖かな光が、いっぱいに。

それはボリスにも伝わったようで、彼は少女の手の中にあるものをまじまじと見つめていた。

「はい。きっと、もう大丈夫よ」

 クロナは、それをそっと差し出す。ボリスが受け取り蓋を開けると、未完だったはずの懐中時計が、完成品として時を刻んでいた。

「おお……さすがクロナちゃんだァ……」

 事態の成り行きを見守っていたノーレッドは、その奇跡に感嘆する。

「これは……無理に組み上げようとなんて、しなくてよかったんだな」

 その懐中時計からは、クロナの所有していた懐中時計と同じ色の光が滲んでいた。彼女のためだけの、もう一つの懐中時計。ボリスは紐を取り付けると、クロナの首へ掛ける。

「これを起動したら、君は元の世界へ戻れるよ」

「そう……」

 今すぐにでもそうするべきだ、というニュアンスを含んでいるような言葉に、クロナは少し焦る。

「……ねえボリス。ノーレッドさんもきっとそのことを言っていたのだと思うのだけれど、もう、あんまり時間はないの?」

「いいや。時間がないのは否定出来ないけど……皆に事情を説明して、それぞれに挨拶をするぐらいの時間なら、十分にあるよ」

「そう。なら、いいわ。……ノーレッドさん」

「おう!? なんでいクロナちゃん」

 不意に名を呼ばれ、ノーレッドはぴょこぴょこと跳ねる。

「封筒と便箋……コトノハが使うものじゃなくて、この世界で使われているものを、少し、多めにくれないかしら。たしか、管理しているのはノーレッドさんだったわよね?」

「お、おう。オレでい。でもクロナちゃん、手紙、書くのか? 直接話してもいいんだぜェ」

「やっぱり、少し卑怯かしら?」

「いんや、そんなことはねーけどよォ……最後だぜ、顔見とかなくてもいいのか?」

 ノーレッドはレターセットを取り出しながらもおろおろと問う。しかし、クロナは首を振った。

「最後になるから。皆の顔を見ちゃったら、またわたし、帰りたくなくなってしまいそうなんだもの。……それにね」

 クロナはボリスの方に視線を向けると、悲しげに微笑む。

「もう、ずっと眠いのよ」

「クロナ……」

「あのね、ボリス。わたしの最後のわがまま、聞いてくれる?」

 ノーレッドから紙の束を受け取ると、彼女はボリスへ耳打ちする。その内容を聞いてボリスは驚いたが、否定はしなかった。

「……本当に、それでいいんだね」

「ええ。みんなには、妙な気を使ってほしくないから」

「わかった……。そうしよう」

 ボリスが頷いたのを確認すると、クロナは眠い目をこすりながら、一文字一文字、丁寧に文章を綴っていった。

 お世話になったコトノハたちへ。最後の言葉を、贈るために――

 

 

 

✦ ✦ ✦

 

 

 

 次の日ボリスによって呼び出された、クロナにゆかりのあるコトノハたちが目にしたのは、椅子に座って眠る少女と、その隣に立つボリス、そしてその足元に丸くなっているアインツの姿だった。

 クロナの失踪から一日後にそのような光景を見せられ困惑するコトノハたちに、ボリスは口を開く。

「本日皆に集まってもらったのは――彼女、クロナ・エペ・トランジーヤの願いによるものだ」

 ざわざわとコトノハ達が騒ぐのが聞こえる。

「しずかーに! 静かに! いきなりでびっくりなのはわかるけどよォ、ここは静かに聞いてくんな! 大事な話だァ!」

 ノーレッドが言うと、僅かにざわめきが落ち着く。彼が目配せをすると、ボリスは再び話し始める。

「皆の思っているとおり、とても急な話だが、彼女は今日、空白の区画へと、そして、新たな世界へと旅立つ事になった。こんなにも突然になってしまったのは、僕が彼女の魂を誤診したからであり――彼女が先日行方不明となったのも、そこに起因する。皆には迷惑をかけた。この場を借りて詫びさせてもらう。……すまなかった」

「それは……まあ、いいけどさぁ~……」

 ボリスが頭を下げるのを見て、ロベリアはどこか納得がいかない顔をする。

「メイヤー、クロナちゃんときちーんと仲直りしたの? お姉ちゃん、そっちのほうが気がかりだよ。まさか仲直りしないままで、クロナちゃんを送るなんてことしてないよね?」

「そこはオレが証人だぜェ! ボリスはちゃ~んと、クロナちゃんと仲直りした! 元の仲良しさんに戻ってたぜェ」

「ふ~ん、まあ、ノーレッドさんがそう言うんなら、ロベリアさんは納得しますけど?」

 ツーンとあっちを向いてしまうも、その表情からボリスへの疑念は晴れているようだった。

「あ、あの、メイヤー・ボリス」

 続いて声を上げたのはキーノだった。自身の行動が諍いの発端となった事をずっと悔やんでいたのだろう、はらはらとした表情で、眠るクロナを見つめている。

「く、クロナは……本当に、大丈夫なんですか?」

「大丈夫だよ。君にも余計な心配をさせてしまって、本当にすまなかった」

「余計だなんてことはありません! ……嫌な結果に結びつかなくて、本当に良かった。これで彼女も、ちゃんと旅立てるんですね」

「……ああ。時間はかかったけれど、これで一安心だよ」

 今度は安堵から涙を流しそうになっているキーノの背中を支えながら、メルティも同じく胸を撫で下ろしているようだった。

「もう、私達からはなにも伝えられないの? お世話になったのに……最後にお礼くらい、言いたかった」

「そうだね……残念ながら。でもきっと、想いは届くだろうと思うよ。まだ、僕らは同じ空間にいるんだからね」

 そう伝えると、メルティは寂しそうに笑い、心のなかでクロナへの感謝の気持ちを綴っているようだった。

「クロナは眠りにつく寸前まで、君たちへの手紙を書いていてね。これがその手紙。どうか、受け取ってあげてほしい」

 一人一人に差し出すと、各々は嬉しいような、寂しいような表情をしながら、それを受け取った。しかしシオンだけは、どうにも受け取ろうとしない。

「シオン。ちゃんと受け取らなきゃだめだよ。クロナちゃんにとっては、それが最後の言葉なんだからね」

 ロベリアに促され、ようやくシオンは奪い取るようにして手紙を受け取る。

「ねえ、これ、今読んでもいいの?」

「……いや。彼女が還るまで、少しだけ待っててほしい」

 そう言うと、ボリスはクロナの首にかかっている懐中時計をそっと見やる。もうじき、魂とともに彼女の姿も消える頃だ。

 その予想の通りに、徐々にクロナの身体が光に包まれていく。懐中時計から溢れる光が彼女を包み込み、やがて消えゆくその様子を、皆は静かに眺めていた。が、ただ一人、その静寂を切り裂くように叫ぶ。

「なによ……なによなによ、なによ! こんなの全然納得出来ないわよ!」

「ちょっとシオン!」

「私からの言葉さえ受け取る気がないなんて……私、そんなの絶対許さないから!」

 シオンはそう訴えると、どこかへと駆けていく。

「あーもう……。いや、お姉ちゃんも……気持ちはわかるけどさ」

 ちらりと消えた彼女の面影を見やる。

「クロナちゃんの気持ちも、少しは考えてあげたらいいのに……」

 溜息をつくも、すでにシオンの姿は跡形もなく消え去っていた。

 

 

 

 小さな水音が、耳元で鳴っている。それはさながら羊水の中にいるようで、穏やかな微睡みが彼女を包んでいた。

 その中で、誰かの気配を感じていた。瞳には映らないが、おそらくは目の前に。

「時計塔……」

 クロナは姿の見えない相手を、それだと確信していた。一度も話したことも、触れ合ったこともない。しかし、心に伝うこの感覚は、間違いなく、時計塔と繋がっている懐中時計を手にした時のものと、一致している。

 クロナが名を呼ぶと、それは微かに笑ったような気がした。そして、見えない腕をこちらに伸ばし――そっと、少女の頬に触れた。

 ゆっくりと、ゆっくりと何かが流れ込んでくる。誰かの声や、風景。既視感のあるそれは、自身の視界。一度は時計塔に預けられた、クロナの記憶だった。

「……っ」

 やがて静かにその手が離れると、クロナは顔を覆った。

 いろんな出来事が、後を追って現実味を帯びてゆく。その中には、幾度も彼女へ真実を伝えるボリスの姿もあった。

「そう……そう……。わたし、こんなに酷いことを……」

 少女は泣き崩れながらも、記憶を反復する。悲しいことも、嬉しいことも、沢山あったというのに。尽くそれを悲しみで塗りつぶして、少女は忘れていったのだ。

「ごめんね、ありがとう……。あなたは、ずっと守ってくれていたのね……。だけれど、この記憶は、わたしにとってそんなにも悲しいものだった……?」

 嗚咽をより一層大きくしながら、少女は記憶の中に見つけた真実を掴みとる。

 しかし、もう遅い。そして、早くてはいけなかった。彼はそのためにずっと、口を閉ざしていたのだから。

「全部、全部……わたしのせい、だったのね……」

 彼から真実を伝えられ、記憶がなくなるよりも。この世界に来て、記憶がなくなるよりも前から。

「わたしが……強くならなきゃ……」

 クロナは止めどなく流れる涙を、上を向いて堪らえようとする。しかし、なかなかそれは止められなかった。

 どんどんと、記憶がこの世界から離れていく。その最中、空白の区画の扉が開かれるのを感じた。

「……?」

 白くなりつつある視界で、クロナは辺りを見回す。すると辛うじて、桃色の髪を持った少女が、そこに立っていることに気づいた。

「……シオン?」

 おそらく、もうクロナの姿は彼女には見えないだろう。そして彼女の声も、クロナにはもう届かない。そのことはきっと彼女もわかっているはずだ。しかしそれでも、シオンは必死に叫んでいた。

 どれだけ叫んでも、言葉そのものは霞んで消えていく。しかし、その言葉がクロナを想っての言葉だということは、嫌というほど感じられた。

 空白の区画では、心というのはより一層むき出しになる。直に触れるかのように、彼女の心はクロナへ訴えかけてくる。

 そして最後に、シオンがいつもそうするように、一輪の花を、こちらへと差し出した。普段は隣で眺めているそれを、今は自分が受け取っている。なんだか、不思議な気分だった。

「……素敵ね」

 クロナは、自身の体が柔らかな腕に抱かれているように感じていた。彼女から花を受け取った魂は、皆、こんなにも満ち足りた気持ちで、旅立っていけたのだろうか。

 クロナはまた一筋涙を流すと、瞳を閉じた。もう、この世界で目を覚ますことはないだろう。次にその目が開くのは――きっと辛くて、それでも彼が、クロナのために願った場所。

 白く染まる世界に、彼女は身を任せた。
 痛い。辛い。悲しい。……もう、永遠に眠ってしまいたい。そんな気持ちで、身体中がいっぱいだった。

 それでも、目を開けないと、どうにもならない。もう、この魂は、あるべき場所へ帰ってきてしまったのだから。

 ――辛い。

 ゆっくりと瞼を開けると、そこに見えたのは真っ白な天井だった。

 動かしにくい腕には、点滴の針。その他には、よくわからない機械が静かながらに音をたてているのがわかる。はるか昔のようで、実際にはごく最近見かけたそれらが、今度は自分に繋がっていた。

 ――悲しい。

 過去を顧みる。残ったものなど何もない。しかし、残したものは、沢山。それこそ、数えきれないほど。それらを置いてきぼりにして、彼女はこの世を去ろうとした。悲しみにその身を流してしまったのだ。

 彼女が身を投げた場所には障害物の一つもなく、そのままの速度で地面にぶつかれば、到底命など助かるはずもない高さだった。だが、彼女は助かった。どういうことだか、彼女は酷い打ち身を負ったのみで、一命を取り留めていたのだ。

 自身が助かったことを、彼女には喜べるはずもなかった。この世界には、もう、大好きだったあの人はいない。

 ――それでも。

 それでも、彼は彼女が生きることを望んだのだから。少女は、悲しみを乗り越えて、生きなければならない。

「お兄ちゃん(ボリス)……」

 掠れた声で、彼女は大好きな兄の名を呼んだ。

 どれだけ願っても、もうあの場所へは戻れない。なにより、そんなことは、彼が望まない。

 時計塔に奪われていた記憶の中で、その姿を見つけた。いつも優しかった彼は、場所が変わっても、時が変わっても、そして世界が変わってさえいても、なにも変わらなかった。

 自身の死が原因で、彼女が自殺を図ったことを、彼は知っていただろうか。今となっては、確認のしようがない。

 紛らわすことなど出来ない悲しみに、クロナはシーツを握りしめた。すると、小さく金属がこすれるような音が、手元で鳴った。

 視線を下げていくと、そこにあったのは、見覚えのある懐中時計。彼が彼女のために、と用意した、無装飾の銀時計だった。

 ――ああ、だから。

 ――彼も、これを持っていたのね――

 傷だらけの銀時計は、彼女が病死した兄の形見として授かったものだった。そんな大切なものさえも、失ってしまうところだったのだ。

 懐中時計を引き寄せ、耳に当てる。壊れてしまったのか、もう針が動く音は聞こえない。自身の鼓動が、そのかわりのように規則正しく鳴っていた。

「……ごめんね」

 彼女がポツリと呟くと、部屋の何処かで衣擦れが聞こえた。しかしその方向まで首を曲げることが出来ずじっとしていると、疲れ果てた声が鼓膜を揺さぶる。

「クロナ……? クロナちゃん……!?」

「……ママ……?」

「ああ……っ」

 人影は少女に駆け寄ると、顔を歪めてその体を抱きしめた。

「クロナちゃん……ああ……良かった、やっと目を開けてくれたのね……」

「ママ……」

「ごめんね、クロナちゃん。ごめんね……!」

 何度も謝罪の言葉を口にして、母親は涙を流した。

 ――わたし、この人のことも、置いていこうとしたのね。

 ――ママだって、大切な、とても大切な家族なのに。

 彼女が泣き止むまで、クロナは震える手をぎゅっと握りしめていた。その確かな温かさに、母親は泣きながら笑みをこぼした。

 

 

 

 沢山の検査を経て、クロナは目覚めた数日後、自身の家へと帰ることができた。まだしばらくは通院する必要があるとの事だったが、やはり病院にいるよりも、いくらか心が安らぐようだった。

 彼女は家に着くと、兄の部屋へと足を運んだ。遺品の整理はすでに終わっているため、そこに残っていたのは、大きな机と椅子、そして小さな写真立て。伏せられているそれを起こしてみると、そこには満面の笑みを浮かべる、兄と自分の姿があった。

 写真の笑みに倣って、なんとなく笑顔を作ってみる。しかし、やはり無邪気な笑みを浮かべるには、まだ感情の整理ができていなかった。

 ――これは、わたしの部屋に置いておこう。

 クロナは写真立てを胸に抱え、また一つ物が少なくなる兄の部屋を悲しげに見回していた。

 

 ふと廊下から足音が聞こえ、そちらを振り向くと、父親の姿があった。

「パパ」

「邪魔したかな」

「いいえ」

 クロナが手招きをすると、父親は遠慮がちに部屋の中へ足を踏み入れる。

 兄の死を悼んでいるのは、なにもクロナだけではない。父親も、度々この部屋を訪れていたのだと、母親から聞かされていた。

「片付けると、随分広く感じてしまうな」

「……そうね。ずっと散らかっていたもの」

「本当に、いなくなってしまったんだなぁ……」

「パパ……」

 涙を流さないまでも、悲しげに呟く父親の横顔に、クロナは心を傷めた。

「あのね、パパ」

「なんだい?」

「わたしがずっと眠っていた時の話なのだけれど」

「……ああ」

 父親は丸くなりかけていた背筋を伸ばし、クロナと向き合う。

「おかしな話だと思わないでね。……わたし、別の世界で、ボリスと会っていたの」

「ボリスと?」

「ええ」

 クロナは頷く。

「わたしはボリスのこと、お兄ちゃんだって気づけなかった。だけど、ボリスはずっとわたしのことを守ってくれたの。わたしが今こうしていられるのは、全部ボリスのおかげ」

「そうか……。ボリスが、クロナを……」

「ボリスとはもう会えないけれど……それでも、きっと近くで、わたしたちのこと、見守ってくれているわ。だからね、どうか必要以上に悲しまないであげて」

 必死に訴えるクロナをそっと抱きしめると、父親は何度も頷く。

「ボリス……お兄ちゃんは、人が悲しんでるところを見るの、好きじゃなかったもんな……」

「ええ。今すぐには無理でも、きっと……いつものパパみたいに、笑ってあげてね」

「ああ……。約束するよ。だから、今は……今だけは、許してくれな……」

 みっともなく涙を流す父親の背中を優しく撫でながら、クロナも少しだけ泣いた。これを最後の涙にするために。

 

 自身の生を願ってくれた大好きな兄へ、精一杯恩返しをするために。クロナは、生きていくことを強く心に決めたのだった。

サイゴノコトノハ...end