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Story after the end black 2

 頭を撫でられていた気がする。首筋を、額を、頬を、何かを確認するかのように優しく。

 静かな声を聞いた気がする。なにか大切なことを伝えていたような。

 深い眠りから覚めた時、ぼんやりとそんなふうな事を考えた。夢を見ていたのか、現実で起きていたことなのか、寝ぼけた頭では判断がつかない。

「起きた? おはよう」

「おはよう……」

 かけられた言葉に反射的に答えるが、彼はすぐに気がつく。その声を再びこの耳で聞くことがあるなど、不自然極まりないということを。

 ――あれ、なんで。

 問いかけようと声のした方を向くと、すでに声の主はこの部屋を出て行ってしまっていた。たいした会話もなく、彼が姿を消すことは珍しくない。しかしぼんやりとした思考の中でも、彼の様子がいくらかおかしいことに、ディールは気がついていた。

 

 

 

「おはようございます」

「おー、おはよう。クラッドはさっさと出てったぞ」

「そうですか」

 自身が眠っていた部屋でしばらく完全に脳がめざめるのを待ったあと、件の黒髪の青年、ディールは、大広間へと姿を現した。少年はひらひらと手を振って彼を迎えたが、霜子と朔を含めたそこにいる他の人々は、その時ようやくディールがそこに立っていることに気がついたようだった。

 放心状態から覚めた仲間たちをひと目見遣り、少年は謝罪を口にする。

「悪い、ちょっと全員ポカンとしてて迎えをやるの忘れてた」

「なんとなくわかりますから、お構いなく」

「すごいな。まあ立ち話もなんだ、とりあえず適当に座ってくれ」

 少年らは大きなテーブルを囲んでおり、まだいくらか空席がある。ディールは少年に近い座席を選び、静かに着席した。

「えーと」

「?」

「まだ誰も、何も伝えてないんだよな……? ディール、クラッドから何か聞いたか?」

「いえ……俺が起きたら、すぐ部屋、出て行ったんで」

 ある程度彼のことを『知っている』少年も、クラッドと比べてあまりの扱いやすさに少々肩透かしを食らった気分だった。

 この世界に流れ着く魂のほとんどは自身が死んだことに気づかないまま、審判を下され、各々の道を進んでゆく。が、まれにクラッドのように自身が死を迎えたことを明確に記憶しているものがいる。おそらくディールもそちら側の人間だろう。その多くは記憶と現状の齟齬にのたうち回るのだが、どうにも今回の二人はその多くに含まれない質のようだ。

 ディールに視線を向けたまま難しい顔で考え込んでしまった少年に、同じようなことを考えていた霜子が、これはいけないと、すかさず妙な空気を払拭するべく明るい声をあげた。

「まあまあ、諸々の事情を説明しながら、ここはひとつお茶会と洒落込もうじゃないですか」

『何かにつけて甘味補給したいだけだろう』

「疲れた時は甘いモノ! ディールさんも起き抜けで魔素不足でしょうから一石二鳥です! ……あ、ディールさん甘いもの平気です? ほかに食べたいものがあればご用意しますよ」

「あ、いや、別に」

「じゃあ適当に嫌いな味を避けて、少しでも口をつけてくださいね。これからいろいろお話ししますけれど、そこでそのわけもきちんとご説明しますので」

 そう告げると、霜子は突然大きく手を打ち鳴らした。するとどこからともなく二つの人影が現れる。その仕掛けを知っている者はみな顔を伏せて笑いをこらえているが、自らが呼び出したかのように見せている霜子本人は満足気な笑みを浮かべ、それぞれに呼びかける。

「おはようございます! アトリさん、そしてアフリーお姫様!」

「こ、声をかけられなかったから驚いたよ。おはよう霜子さん」

「おはようございます霜子さん。もうとっくに正午をまわってはおりますが」

 現れたのは共に二十を過ぎた男女で、アトリと呼ばれた人物は唐突な召喚に戸惑っているようだが、もう一人のアフリーと呼ばれた女性は悠然とそこに立っていた。

「祝ディールさんお目覚めということでお茶会をすることになりました! ので、アフリーさんは飲み物の類を、アトリさんは食べ物の類をお願いします!」

「かしこまりました、すぐにご用意いたします」

 アフリー、もといアフリットは皆の方へ一礼すると、霜子からの頼み事を果たすべく、再び煙のように消えてしまった。

 一人その場に残ったアトリはすぐさま小さな布を取り出すと、その端を霜子に引っ張るようにと伝え、霜子はそれに応じてアトリの対面から布を引いた。フェイスタオル大だったそれはたちまちテーブルの隅から隅までを覆うテーブルクロスとなりかわり、二人はフワフワと空気を含ませながらそれぞれの机上に敷いてゆく。

 この屋敷に訪れるものは、密かにこのパフォーマンスを皆楽しみにしている。ここを住居としているものは幾度となく目にしてきているが、されど飽きることはない。

 アトリという青年は、話が特別上手いわけではない。よって言葉巧みに場を盛り上げることに適していないが、その代わり随分と頭の使い方が上手く、これから行われる一瞬の出来事は、この世界でも彼にしか出来ないたぐいの演出である。

「さあ、じゃあいきますよ。今日は多めに魔力開放してもらえたから、その分質のいいものを」

 アトリは瞳を閉じ、指を一度パチンと大きく鳴らした。すると黄みを帯びた光の玉が突如として現れ、個々が意思を持ったかのように大小バランスよく整列してゆく。そしてもう一度アトリが指を鳴らすと――それらは瞬時に形を成し、ケーキやブレッドとして机上を彩ったのである。

 セッティングされたティーカップの底からは紅茶が湧き出し、それがカップを満たすと同時に、アフリットもその場に姿を現す。

「おお――! これはまた見事な! 素晴らしい!」

 大変興奮した様子で手を叩く霜子に対し、アトリは照れくさそうに頭を掻く。

「君はほんっとうに褒め方がオッサンくさいね……ありがとう。いやあ、お姫様が紅茶を湧き出させるとは思わなくてびっくりしたなぁ」

「こっそり練習していたのです。座標が定まらないうちは、机の上が水浸しなどということも、いくらかございました」

「でも成功しましたね! すごいですアフリーさん!」

 屈託ない霜子の笑顔は、表情の乏しいアフリットの口元さえ綻ばせてしまうようだ。アフリットとしても今回の成功は特別嬉しいものなのか、心なしか浮かれているようにも見える。

 目の前で起きている魔法のような現象に一人馴染みのないディールは、ただただ不思議そうに目を丸くしていた。そんな彼の肩にそっと手を置き、少年は言う。

「と、まあ。こういうことが日常的に起きる世界なんだ、ここは。それを念頭に置いていてくれさえすれば、これから話すことはそんなに難しい話じゃなくなる。時間がなくてクラッドには言ってなかったことも含めて話をするんで、少し長くなるぞ」

 斯くして、茶会と称した新人説明会が開催されたのだった。

 時間が進むにつれ、茶会にはいささか不似合いな料理が姿を見せ始めたこともあり、調子に乗って酒を呑みだす者や酔ってもいないのに叫び声を上げながら疾走するものも現れ、大広間一帯は喧騒に包まれた。しかしディールを囲むように座っている者達は比較的静かな者が多く、真剣な話が出来ないというような状況になることはなかった。生前よくクラッドに連れられ訪れていた酒場の十倍はあろう広さの中、人の騒がしさに囲まれることはめったに無いため、ディールはわずかに緊張していたが、カップに残った紅茶を飲み干し、それを誤魔化す。

「まったくうるさいな野郎どもめ……念のため言っておくが、仕事中は真面目な奴らなんだ。だからこそのあれなわけでな……」

「仕事中まであんなだったら、そもそもあんたが許さないだろう? あんたもとても真面目そうだ」

「そんなこともないと思うが……わかってくれるか」

 自身では自らをあまり真面目ではないと感じているのか、少年は微妙な顔で笑った。

 少年は名をセルフィと言い、この世界を治める長、魔族長の座に君臨している。つまりどんちゃん騒ぎを起こしている者達の上司である。

 十五歳前後とおぼしき容姿から何かの冗談かと思いきや、霜子やその他のメンバーが魔族長様と呼びかけていることから、確たる事実のようだ。

 とにもかくにも堅苦しさが苦手であり、部下には勤務時間外の制服着用は禁じている。ディールの話す敬語も早々に禁じ手として封じてしまったほどだ。

 世界が生まれた頃より存在していると言う記述のある古書には、その名とともに容姿も描かれているが、今紅茶をシナモンでぐるぐるとかき混ぜている少年は、妥協してもその一回りは幼い姿をしている。彼曰く複雑な事情があるようで、それにはアトリも一枚噛んでいるらしいのだが、ディールが軽く話を聞こうと彼の方を見ると、霜子に負けず劣らずのさまで動揺していた。

 そんな彼の隣でひたすら金平糖を消費しているのは、先程カップに紅茶を湧かせていた女性、アフリットである。彼女は炎を司る精霊であり、魔族長セルフィのサポート役としてこの屋敷に住んでいる。

 元は別の世界の住人だったが、命を落としこの世界に辿り着いたのだという。お姫様と呼ばれているのは、単に彼女にある種の憧れを抱いている霜子が、勝手につけた愛称だ。

 アトリ、アフリットの二人はこの屋敷の雑用係を兼ねており、身の回りのことは彼らに任せるといい、とセルフィは言う。ちなみに彼らの好きでやっていることらしく、その件に関しては報酬を受け取る気はこれっぽっちもないようだ。

 もくもくと金平糖を口に運び続けるアフリットの隣には、こちらももくもくとフライドポテトを平らげる霜子、そしてその膝の上には朔が鎮座しており、時折平らなしっぽをパタパタと振っている。

 霜子は主にこの世界に辿り着いた魂を安全にこの屋敷まで送り届ける役目を担っている。それと同時に、魂の未練を晴らす手伝いもしているらしい。こちらは雑用係の二人と同じく個人的にやっているそうだが、「彼女に助けられた者は決して少なくない」と語るのは霜子の膝の上にいる朔だった。

「また朔のノロケが始まったぞ」

『俺は本当のことしか言ってない』

「朔おやめ! 身内自慢ほど恥ずかしいものはありませんたら、もう」

 セルフィの言葉にきっぱりと答える朔に、霜子はポテトを食べる手を止め照れくさそうに顔を扇ぐが、その表情にほんの少し影がかかったのをディールは見逃さなかった。が、話を聞く限り、この世界の者達は皆複雑な事情を抱えており、それはむやみに掘り下げていいものではない。そのことを理解している彼は、無粋に声をかけることはしなかった。

 

「さて」

 朔のパートナー自慢が終わる頃、魔族長セルフィが両手を叩き、意味深に一呼吸の間を置く。すると空気が変わったことを察して、朔は空いていた他の椅子へと移動した。

「俺達の話はこれで一応が終わりだ。次はディール、君の話を聞かせてくれ」

「俺の話……?」

 突然話を振られ、首を傾げる。流れだけで言えば、セルフィから時計回りに個人の紹介を受けたため違和感はない。しかし周囲の様子を見る限り自分のことを知っているとばかり思っていたので、ディールは驚いたのだった。

「なんだ、知ってるんじゃなかったのか」

「いや、知ってるよ。でも君の口からも聞いておく必要がある」

 そこまで言うと、セルフィは霜子へ目配せをする。

「あ、はい。ではここからは私がご説明しますね。ディールさんの口からお話を聞きたいわけは、私の趣味のほうにその情報が必要だからなんです。んーと、審判はその人本人の記憶、そして世界の記憶を元にして行われるという話はさきほどさせてもらいましたよね? 審判はほぼそれだけでできてしまうんですけれど、私の趣味は、それだけだとちょっと情報が足りないんです」

「……なるほど?」

 霜子の趣味――この世界に辿り着いた魂の未練を取り除いてやることだ――は、要するに対象の言葉と記憶の中から、本当の願いを探り当て、様々な手段を持って叶える、というものらしい。

 この世界の魂は、大半が罪を犯した者達なのだという。天使による審判は実に辛辣を極め、どのような理由であれ、罪人と認められたものには生まれ変わるチャンスさえ与えられず、その魂は消滅へと導かれる。

 長らくそのような心無い審判が続けられていたが、それに待ったをかけたのが、その頃下っ端の天使として世界の治安維持に務めていた霜子だった。

 霜子はかねてより他の天使とは正反対の考えをする少女であった。おそらく審判以外では人間の魂に触れることがない他の天使よりも人の心というものに敏感で、複雑な事情を抱えて罪を犯してしまった者達が否応なしに隠滅される現在の体制が、彼女にはとても許せることではなかったのだ。

 彼女は、失敗すれば今後一切口出しをしないという条件で審判までの時間を引き伸ばし、これまでの審判を見直しさせるべく、魂の闇をわずかでもいい、薄めることができるよう励み、その結果彼女は大天使へと地位を押し上げられたのであった。

 正確に言えば、対象の未練を晴らし魂の浄化に成功した彼女に、尚も反発するその他の天使たちに痺れを切らしたセルフィが、霜子を大天使へと昇格させ、数値でしかものを量れない下級の天使たちを無理矢理にでも従わせる事となったのだ。

 その結果他の天使たちにより一層悪意を向けられるようになってしまった霜子だったが、救える魂があることを確たる事実とすることが出来た彼女にしてみれば、そんなものは非常に些細な問題でしかなかったようだ。

 それからの審判は、天使が持つ特殊な能力を使用し問答無用に善悪を量る方法の前に、霜子による魂の救済制度がワンクッションとして挟まれるようになった。

 彼女が浄化できればその魂は消滅を免れる。しかし当然すべての魂を浄化できるわけではなく、彼女の力が及ばなかった場合、現状では天使による従来の方法で裁かれる。

 彼女の当面の目標は、少しでも救える魂を増やすこと。そしてそのためには、より人間の心を理解しなければならないのだ。

「この世界にやって来るほとんどの方は、死の記憶がないために直前の記憶から望みを推測しやすいんです。だけどあなた達のように鮮明に残っている場合、その記憶が様々な雑音……に私たちには聞こえるんですけど、つまり余計な感情が本当の願いを覆ってしまって、なかなかそこに辿り着けないんですよ」

「なるほど。……ん、ということはつまり、俺も君によって浄化されない限りは、有罪一直線なのか。とくに予想外でもないが」

「ああ、いえ、そのことなのですが」

 霜子は少々言いにくそうにディールの顔色を窺っている。彼自身には霜子に気を遣われる理由が特には思い当たらなかった。

「えーと。ディールさんは浄化が必要なほど濁ってはいません。実を言うとこの世界に来るはずではなかった魂だとも言えるのですが、その、クラッドさんが、ですねぇ……」

「? 随分あいつの事を言いにくそうにするな。何かされたのか……?」

「「そうきたか!」」

 あの時部屋から出てきたクラッドの様子を見るに、絶対に何か一悶着あったものかと思っていた霜子と、何もなかったことはわかっているが思いもよらぬ台詞が返ってきたセルフィは、まったく同じリアクションで椅子を揺らした。尚もディールは理解できていない様子で、二人を不思議そうに見つめている。

「さすがの霜子さんもびっくりしましたよ……今のは効きました……」

 頬に一発拳を受けたような衝撃に眩暈を覚えながら、本人が気にならないのであれば、と霜子は気を取り直して説明を再開した。

「とまあ、本来別の世界に――ああ、もう一つここと同じような働きをする世界がありまして、そちらに行くはずだったディールさんを、クラッドさんが連れて来ちゃったんですよね」

「実際のところ、あいつが連れてきたのか君がついてきたのかはわからんがな……。普段なら頭を抱えるところなんだが、今回に限っては幸いなことだった」

「そう! そうなんですよ!」

 セルフィの言葉に、霜子は立ち上がって強く頷く。

「と、言うと……?」

「聞いてください、ディールさん。なんとクラッドさんの未練は、良くも悪くもあなたに関することなのです」

「まじか」

 ディールは夢にも思わなかったという顔をしているが、記憶を取り戻した時のクラッドの様子を見ている者にとっては、またもや「そうきたか」といいたいところであった。

「思い当たること、ありませんか? ディールさんは眠っている間に、欠けた記憶もすべて修復されたようですし、何かあればお願いします」

「ああ……」

 返事をすると、ディールは暫し俯いて考え始めた。随分と集中しているようなので、霜子は声をひそめてセルフィに話しかける。

「セルフィ様はもう見たんですよね? ディールさんとクラッドさんの記憶」

「まあ流し読み程度ではあるがな」

「原因っぽいのありました?」

 霜子の問いに、セルフィは軽くため息をつく。

「原因っぽいの、なんてもんじゃないぞ。絶対これだろってのがある。……が、ディールは気づかなさそうだし、クラッドは認めなさそうだ。これは困難を極めるぞ~?」

「おもしろそうに言わないでくださいー! 性格悪いですよ」

「ふん、俺の立場で聖人じみた性格を保てる奴がいるならぜひとも見てみたいね」

「そういう自虐は反応しにくいのでやめましょう」

 冗談じみたやりとりがひと通り終わると、長い間俯いていたディールがスッと顔を上げる。その表情を見る限り、良い収穫は得られなかったようだ。

 彼は、自分自身にあまりにも興味が無い。よって、自分が周りに与えている影響に気づけないのだとセルフィは考える。

「どうだ、何かあったか」

 先程の霜子と同じように問うと、やはりディールはゆるく首を振った。

「いや……これかなと思うものはいくつかあるんだが、それが万が一原因だとして……クラッドが気にするとは思えない……」

「まあそうだろうなぁ……」

 想定の範囲内であるためセルフィはそれほど落胆することもなかったのだが、霜子は逐一うなだれ、しっかりとリアクションをとっている。

「そもそも」

 口に指を添えたまま、うわ言のように呟く。

「全部あいつが終わらせたんだ。もう……なにもないはずなんだよ」

「終わらせたこと自体に未練がある、とは思わないのか?」

「自分の手で終止符を打ったんだ。それが未練になるはずが……あ?」

 一瞬なにかひらめきかけたようだが、見当違いだったのかまたすぐに考え始める。まじめに考えてはいるのだろうが、やはりいまいち的を射ない。

 このままでは埒が明かないことは彼もわかっているのか、若干焦っているようにも見えた。

「なあ、ちょっと聞いていいか」

「ん……?」

「お前、あいつの事心配か?」

 まだディールの記憶について何も知らない霜子には聞こえない声で問うてみる。散々な目に合わされてきたんじゃないのかと。しかしディールは少しも考える素振りなく、頷いてみせた。

「あいつはあんなでも、どんなにひどくても、ただの普通の人間なんだから」

 またもや予想していた通りの返答に、セルフィは複雑な心境のまま笑った。

「……そうか。ならいいや」

(こいつにとっての想いは、自分の心なんかじゃない……)

 それが幸か不幸か、彼自身ではないセルフィにわかるはずもない。しかしそれでも、この状況は好ましくないと感じていた。

「なになに、どうしたんですかセルフィ様」

 二人が小声で話をしていることに気づいた霜子が身を乗り出してくる。

「いや、なんでもないさ。とりあえず明日からクラッドの方をどうにかしよう。あいつがいなきゃどうにもならん」

「お話聞いてくれますかねぇ……」

 どうやら霜子は今朝のクラッドの表情があとを引いているようで、少々顔が強張っている。

 これまで様々な魂に触れてきた彼女だが、いまだに不機嫌な相手には弱いようだ。

「無理にでも聞いてもらうしかないだろうな。ああいう頑固なのには、素直な奴に牙を抜いてもらうのが一番かな~」

 ちらりと視線を向けられたことを知ってか知らずか、朔は翼をひらひらと揺らすのだった。

 

 

 

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 数日ぶりの外の空気が、こんなにも心地良く感じるものだとは。

 この世界に来た当初とは違い、十分に自由の利く体をうんと伸ばしながら、クラッドは煉瓦の敷かれた道を当て所なく歩いていた。今日までまったく外に出る機会もなく、ここはどこだか、この先に何があるのだか、そういったものはまったくわからないが、今はそれがかえって良いことだ。じっとしていたら、余計なことばかりを考えてしまいそうだった。

 自身が死んだことを他者によって肯定され、いよいよ自発的に動く理由がなくなった彼に残されているのは、天使による審判のみ。そういう風に霜子から伝えられたし、そうなんだと理解した矢先に、彼にとって都合の悪い存在が目を覚ましてしまった。

 レオ・ベルネット。後にディールの正式な名をそれと知った。頑なに自分の素性を話さなかった彼がきちんとした家の生まれだったということに、いささか癪だが安堵している自分がいる。

 ディールは、極端に自分自身のことに興味のない人間だった。

 二人が初めて出会ったのは、クラッドがとある事件に巻き込まれたのちに移り住んだ街の、路地裏だった。暴行を加えられていたディールを彼が助けたことで知り合ったのだが、その時も体中痣だらけだった自身を顧みず、傷ひとつないまま大人一人を伸したクラッドのことを心配してみせたのだった。

 その異質さをいたく気に入り、クラッドは彼で散々遊んでやろうと画策するのだが――結果的に言うと、それは失敗に終わった。彼は自分自身がどうなろうとまったく興味がなく……つまるところ、他者に何をされようが、それを当然のごとく受け入れてしまえる心の持ち主だったのだ。

 誰かが自分を愛そうと、それは相手が望んだことなのだと。誰かが自分を傷つけようと、それは相手が望んだことなのだと。それが相手の望みなのだから、自分がどうなろうと知ったことではない。偽りの愛情を注ぎ、依存させ、挙句突き放すことで心のどこかを満たそうというクラッドの試みは、ディールのたった一言によって完璧に崩されてしまったのだ。

「ごめんね、望みどおりになってあげられなくて」

 あろうことか、彼は謝ってみせたのだ。騙されたことに憤慨することなく、騙したことを咎めようともせず、たった一言、ごめんねと。

 これほどまで異質なものとは思わず、まだ子供だったクラッドは素直に恐怖を覚えた。

 が、そんなことがあったあとでも、不思議と二人は一緒にいた。クラッドにしてみれば、ディールと共にいるのはただの暇つぶしであったし、ディールにとっても、それこそ彼がそう考えるのなら従おう、とその程度だったのだろう。

 その程度だった。と、クラッドは今でも思っている。しかし、心の何処かで別の何かが渦巻いていることに気付きかけていた。だがそれを認めてしまえば、何もかもがおかしくなってしまう気がするのだ。

 彼のことを思い出しさえしなければ。霜子やセルフィに対する苛立ちは八つ当たりでしかないことはわかっているが、どこかに意識を逸らしていなければ、らしくもなく考えこんでしまう。

 クラッドは今まで生きてきた中で、感情をかき乱されるなどほんの数回の経験でしかなく、いまだに処理の仕方がよくわからない。心がどうにか平静を取り戻してくれることを、信じてもいない神に願うばかりだ。

 これまでずっと本心を隠して生きてきたのだ。もちろん彼は人に相談を持ちかけられるような性格ではなく、あまつさえこの感情に名前をつけられようものなら、その場で舌を噛み切って死んだほうがマシとさえ思っている。この世界で舌を噛み切って死ねるかどうかはともかく、それくらい心の内を晒すことに抵抗をおぼえているのだ。

「は――」

 せめてこのわだかまりを口から出してしまえないかと二酸化炭素――今はそれではないだろうが――を精一杯吐き出す。その気になれば呼吸を必要としないこともできるらしいが、まだ暫くの間は忘れられそうもなかった。

 

 

 

 翌日より開始されたのは、クラッド捕縛計画とは名ばかりの、彼の気を引いてなんとか話し合いの場を設けよう作戦であった。当然提唱したのは霜子であり、魔族長セルフィは、もっぱら自分の溜まった仕事を消化する作業に勤しんでいた。そのため、炎の精霊アフリットが、彼女のサポートに就く事となった。

 サポートと言ってもやることはほぼなく、彼女の行った作戦内容を報告書にまとめるくらいなのだが、アフリットはなかなか楽しそうに霜子の後ろを付いて回っていた。

 朔もこの日よりしばし霜子の膝を離れ、屋敷内担当の霜子たちにかわり、クラッドが街に出てしまった際には彼が作戦を引き継ぐ事となっている。

 何もすることがないのは、ディールとアトリの二人だけである。ディールはもとより何もする必要がないのだが、アトリは本日非番であるらしい。正確にはセルフィの手伝いをするつもりだったようだが、変なところで生真面目な彼は、アトリの申し出をすっぱりと断ったそうだ。しかたがないので、今日はエントランスホールで静かに茶会を開いているのである。

「霜子さんたちがいないと本当に静かだね……」

 本日もう何杯目かもわからないミルクティーに角砂糖を放り込みながら、アトリは静かにつぶやいた。

 朝から黙々と茶を飲み読書を続けてきた二人だが、なかなかに嫌気が差してきてしまっている。何も読書が嫌いなわけではないが、霜子たちの成果が上がるまで、という終了時間の曖昧な休息では、いかんせん集中力が上がらず、ついに本を閉じてしまったのだ。

 お世辞にも対人会話が得意とは言えない二人が揃ってしまうと、会話らしい会話も生まれず、居心地の悪さこそ感じないが、長い無音が続いてしまうといわれのない罪悪感が沸き上がってくる。

「なんかこう、一人おしゃべりな人がほしくなるよね」

「そうだな……声がビージーエム的な……」

「それそれ。俺達は適当に相槌うつだけみたいな感じでね……。霜子さん早く戻ってこないかな」

 おしゃべり、といえばやはり霜子が一番に上がるようで、アトリは彼女が暴れまわっているだろう西館の方をじっと見ている。時折その方向からは霜子のものと思われる大声が聞こえてきたり、ドタバタと物音がするところから推測すると、いままさにクラッドと一戦交えているのだろう。

「そういえば、ちょっと聞いていいか」

「うん?」

 アトリは西館の方を見つめながらこたえる。

「彼女は……自分の『趣味』の方の話を、クラッドにしなかったらしいんだが……」

「ああ、それね。ふふ」

 まだ少しも話さないうちに、アトリは何が面白いのかくつくつと笑ってみせた。

「多分それね、霜子さん無駄と思ったんだろうね」

「無駄?」

「ほら、だって彼は君のことを覚えていなかったんだし。君が未練に関するなら、君を忘れている状態の彼に、これっぽっちも未練なんかなかったんだろうね。霜子さんは、彼が君のことをちゃんと思い出してから話そうとしてたんじゃないかな」

 まあその後すぐ君のところに飛んでっちゃったみたいだけど、と笑いながら、アトリは残り少ない砂糖菓子を小皿に取り分け、いまいちわけがわからないという顔をしているディールの前に差し出した。

「まさに『君がいない世界に意味はない!』ってやつだね、ははは」

「……?」

 何がおかしいのかは理解できないがなんとなくからかわれているということは察し、されど言い返す材料もないため、ディールはおとなしく差し出された砂糖菓子に手を付けることにした。

「なにはともあれ、霜子さんはわりと考えてる子だからね。もうすぐ今回の試みも実を結ぶ頃なんじゃないかな?」

「クラッド捕縛計画がか?」

「そっちは表向きで、じつのところは朔君に――おっと、本当に来たみたいだよ」

 アトリの声を合図に、再び二人は西館へと視線を戻す。騒がしい足音が、もうすぐそこまでやってきていた。

 急いで魔素を拡散させテーブルの上を片付けていたアトリの作業が終わる頃、見た目には十分なほど重厚なはずの大きな扉が、突如として粉々に吹き飛んだのだった。

「!」

 アトリがとっさにテーブルを倒し、そこに身を隠すことで爆風から逃れられたが、果たしてこちらに向かっていた足音の主たちは無事なのだろうか。そうディールが考えたのもつかの間、粉塵の向こうから、クラッドとそれを追う霜子の姿が現れた。

「しつっっこい! なんなの君ほんとなんなの!?」

 鬼気迫る表情の霜子が放つ魔法のようなものを必死によけながら、クラッドは叫んでいた。おそらくあまりのそっけなさに痺れを切らした霜子が実力行使に打って出たのだと判断し、ディールは頭を痛める。

 ディールが知る限り、クラッドは周囲の障害物を最大限利用して逃げ回ることを得意としていたため、障害物がなくひらけているこの屋敷の中では、圧倒的に不利なようだ。せめて霜子の攻撃から逃れようと直線的に走るのを避けているようで、それが功を奏してか、まだ大きなダメージは受けていないようだった。

「あれ大丈夫なんだろうな!?」

「大丈夫大丈夫。あたってないでしょ、彼」

「そうは言ってもなぁ……」

 まさか霜子も本気でクラッドを戦闘不能にしようとは考えていないだろうが、いかんせん彼女の力がどれ程のものなのか把握できていないディールとしては、寿命が縮む思いだ。

「ふっふっふ……さすがのクラッドさんも魔素供給なしで長時間の交戦ではさぞお疲れでしょう……。そろそろ降伏するのにちょうどいい頃合いだと思いますけどねえうふふふ」

 肩で息をするクラッドとは違い、にたにたといやらしい笑みを浮かべている霜子には、まったく疲れた様子が見られない。彼女のあまりあるバイタリティに、クラッドは押されている。

「こちらにはまだまだ余裕がありますよ~! クラッドさんが霜子さんのスタミナ切れまで持ちこたえられるというのなら、無理にとは言いませんけれどね!」

「……」

 クラッドはしばらく考えるような素振りを見せていたが、やがて考えが纏まったのか両手を上げる。

「そうだね、そろそろ疲れてきたし、もう降参しちゃおうか……」

「おお、まじですかまじですか! では早急に話し合いの場へ――」

「なーんて言うと思ったか、このゴリ押し少女め! 体力回復にご協力アリガトウゴザイマース!」

 完全に彼が諦めたのだと勘違いした霜子が足元から魔法陣を消した瞬間、クラッドはここ一番の笑顔で彼女に背中を向け全速力で走りだした。

「あー! この!」

 再び魔素を充填する霜子だが、その間にもクラッドは広い廊下を駆け抜けてゆく。

 霜子が攻撃を放つことができる頃には、彼は倒れた円卓の前――つまり、アトリとディールの目の前まで辿り着いていたのだった。

 そう、クラッドは複数人がこの円卓の影に隠れたことを知っており、かつ霜子が彼に向かって放つ攻撃は他の人を巻き込まぬようにしていたことに気付いていたのだ。

 このまま撃てば確実に彼らを巻き込むことになり、例え円卓の影に潜む『誰か』ごと攻撃を放っても、その時すでに彼は円卓の裏側、直接の攻撃は当たらない。そのことを見越して、彼は行動を起こしたのだった。

 クラッドの思惑通り、霜子は攻撃を躊躇した。その一瞬の隙に円卓に跳び乗る。

 しかし、彼は一つだけ知らなかったのだ。円卓の裏に潜んでいるのが、ディールだということを。

 つま先が円卓に触れる僅かな時間、クラッドは人影の正体を確認する。そして無事着地を果たすと、そのまま屋敷の外へと姿を消したのだった。

 一部始終が嵐のように過ぎ去り、その原因の一つであるはずの霜子も大いにくたびれ、そのままぺたんと座り込んでしまった。脅威が去ったことを円卓の影から確かめると、アトリは霜子に歩み寄り、小さな青い飴のようなものを手渡した。

「お疲れ様、霜子さん。これで何とかなりそうかな」

「ぐおお……ありがとうございますアトリさん……非常に助かります……。いくら魔素供給ができるとはいえ、やっぱり魔力をセーブして撃ち続けるのは精神的にきますねぇ……」

 霜子はアトリから受け取ったそれを口の中に放り込むとコロコロと転がす。すると今までわずかに緑がかっていた瞳と髪の色が、不思議と元に戻っていくのだった。

「でもその献身のおかげで、作戦は順調みたいだね?」

「ええ、おそらくバッチリです! あとは朔がきっと何とかしてくれます!」

 決して他力本願などではなく、相手を本当に信用しているという意味を込めた言葉にアトリは微笑んだ。

 霜子は飴のようなものを口内で溶かし切ると、疲労など吹き飛んでしまったかのようにすっくと立ち上がり、アトリを連れてディールの元へ駆け寄る。座り込んだままのディールはまだ少し放心しているようで、クラッドが走り去った先を見つめたままだった。

「ディールさーん、大丈夫ですか?」

 彼の目の前で数回手を振ると、ようやくはっと気を取り直し、霜子を見上げた。

「……あった」

「はい?」

「さっき一瞬目があった……」

 そう呟いたきり、彼はぱったりと倒れこんでしまったのだった。

「ディールさん!? ディールさんちょっとディールさ――ん!!」

 原因はただの魔素不足だったようだが、ついさっきまで食べ物の形で魔素を補給していたはずの彼がどうして急にそうなってしまったのか、アトリは首を傾げるばかりであった。

 

 

 

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「まったく……なんだってんだ」

 必要最低限の知識のみを有し、霜子の趣味や魔族長の名前でさえ未だ知らないクラッドは、ひたすら押し寄せてくる激流にただただ不満がつのるばかりだった。

 生前の彼は人並み外れた知識欲に満ちあふれており、知らないことがあること自体が非常に許しがたいことであったが、現在に至っては知っていることを一つでも減らしておきたいようだった。

 欲があれば生き意地が張ってしまう。それが一番の敵だ。いつ審判の時が来ても諦められる世界でないといけないのだ。

 何も考えないように、何も意識しないようにと務めるも、それがかえって意識している事になるということは、彼にも十分理解できている。

 きっとこれも、封印していた記憶を無闇に引きずり出されたからなのだ。もちろん霜子にも、引きずり出された記憶にも罪はない。あるとすれば、自らの記憶を封印するなどという器用なマネをさせたこの世界自体にある――などと、だんだんと罪の押し付けのスケールも大きくなってきたところで、クラッドは考えることをやめた。

 必然なのか偶然なのか、気がついた時には、この世界に初めて訪れた時に彼自身が横たわっていた噴水広場へと辿り着いていた。

 屋敷からこの場所への道を、クラッドは知らない。さすればそれは、やはり運命なのだろうか。あるいは、何者かによる誘導なのか。

 ふうと息を吐き、クラッドは背後にいる人影に声をかけながら、噴水の縁に腰掛ける。

「今度は君か。まったく次から次へとよく飽きないね」

「飽きたからといって、放棄できることじゃない」

 人影は困ったように眉を下げ、静かに佇んでいた。

 たった一度しか見ていない姿な上に服装まで代わっており印象が違うが、彼はそれが朔だとわかっていた。屋敷を出た時にはすでに何者かがあとをつけており、そしてそれが霜子による『刺客』であることはなんとなく予想がついていた。

「ここじゃないといけない理由があるわけ?」

「とくには……。あえて理由をつけるとすれば、噴水の音でまわりに会話がもれにくい……?」

「ああそう……」

 何も考えていなさそうな朔の返答に眩暈を覚えるクラッドだったが、幸い彼には、クラッドをふん縛って連れ帰ろうという気はないようだ。はてなく追い回されるよりはずっといい。これである一点にさえ触れて来なければ、そこにいるもいないも同じことだ。

 だが現実は、というよりも朔という男は、クラッドのささやかな希望などつゆ知らず、愚直にタブーを突き抜ける。それはもう、潔いほどに。

「ちょっといいか」

「んー、なに? 変なことじゃなかったらいいよ」

「変なことじゃないぞ。ディールのことでいくつか話が……」

 すべての言葉が朔の口から出てくる前に、クラッドは類稀なる素早さで両の耳を塞いだ。

『なんで耳を塞ぐ。まだ何も言ってない』

「言ったよバッチリ! この上なくはっきり! ほんともうなんだって一点集中でかましてくるわけ!?」

『俺がクラッドと話すことなんかこれくらいしかないぞ』

「さらっと言うよね君は! と言うか頭に直接言葉を送んな!」

 傍からすれば後半はクラッド一人が叫びあげているように見えただろうが、彼は構わず喚き散らした。朔に対して耳を塞ぐなど無意味そのものな行為をやめようともせずに。

『そんなに嫌か、この話は』

「嫌だよ。じゃなかったらこんなに嫌がらないでしょ普通」

『嫌よ嫌よも好きのうちというやつ』

「どこで覚えてくるんだよそんな言葉……」

 聞き覚えのある日本語の俗言に、呆れを通り越して感心してしまいそうだ。どうせまた霜子の入れ知恵だろうと、またもや彼女に軽い恨みを抱きながら、クラッドは頭を掻いた。

 どうして彼らは自分にこれほどまでにしつこく張り付いて来るのだろう。ディールのことならわざわざ自分に聞かなくとも、彼に直接聞けばいいものを。

 当然クラッドはディールが自分自身に異常に淡白なことを知っているが、クラッドもまた彼のことを彼以上に理解しているわけではないのだ。

「知りたいとは思わないのか」

「……逆になんで、知りたいと思ってるんじゃないですか? みたいな問い方なんだよ」

「いや、だって。好きなんだろ」

「…………はぁ~あ!?」

 朔の口から発された思いもよらぬ――というよりも絶対に口にされたくなかった言葉に、クラッドは全身から冷や汗が噴き出るのを感じた。本人としてはまったく意図しない形で巨大な爆弾を投じてしまった朔は、当たり前だが涼しい顔をしており、その温度差がよりいっそう彼を動揺させた。

 こういう時、魔族長セルフィやアトリであればニヤニヤと嫌な笑みを浮かべることだろうが、朔にはそういった厭味ったらしい趣味はない。ただただ正直に思ったことを述べているだけなのだ。

「ちょ、ちょっとまって。何を、どうしたら、そうなんの? え?」

「何をどうしたらといわれても困る。嫌いなのか?」

 朔は臆面もなく問う。

「……少なくとも前は嫌いだったよ」

 煮え切らない態度でクラッドは答える。少なからずこの話題から逃げることを諦めたのか、頑なに拒絶する姿勢は崩れ始めたようだ。

「好きとか嫌いとか、そんな風に簡単に割り切れないよ。それに、そんな良いもんじゃないしさ」

「何が気になる」

「何がっていわれてもなぁ……ってこれ、さっき君にも同じようなこと言ったね、ははは」

 たいして面白そうでもなく、クラッドは笑った。なにか深く悩んでいるようだが、やはりクラッドは話そうとはしない。朔はその心中をはかるすべを持ち合わせているが、あえて今その力を行使しようとは思わなかった。

「自分自身じゃわからないことは人に聞くしかないと、俺は思う。口に出すことで整理できることもあるだろうし、まあ、なんというか……一度ちゃんと彼と話をしてみてはどうか」

「それができたら苦労はしねーよ。……と言いたいところだけど、なんかほんと君の言うとおりな気がしてきたよ。と言うかそれが、一番手っ取り早く決着がつく方法か」

 クラッドはそう言い、どこか肩の荷が降りたようにスッキリとした表情で立ち上がり、もと来た道を戻り始める。それが諦めの表情でないことを願いながら、朔もその後を追うのだった。

 

「ただいま」

 少し時間をかけ、ゆっくりと屋敷へ戻った彼らが最初に見たものは、その歩みゆえの帰りの遅さを心配し、今にも走りださんとする霜子の姿だった。

「あああおかえりなさい! 心配してたんですよ! 戦果のほどは如何なもので!?」

 二人を心配しているのか戦果そのものを心配しているのかもはやわからないくらいにどちらのことも気になるのか、霜子はかなり早口でまくし立てる。そんな彼女と相対的に、朔は実にマイペースな様子だ。

「こんなもんです」

 朔はそういい、クラッドの方を見る。先程からずっと無表情のままだが、ただとてつもなく落ち着いているだけのようだ。怒りや悲しみといったたぐいの感情は感じず、霜子はひとまず安心したように息を吐いた。

「クラッドさんもおかえりなさい」

 にこりと微笑むと、クラッドは笑みを返すかわりに、一言呟いた。

「ディール、どこ?」

「……!」

 その言葉を聞くやいなや、霜子はなんとも言えない表情で感極まったように胸の前で手を握り合わせた。そしてそのまま、東館に向かって勢いよく走りだした。

「クラッドさん、ディールさんはこっちです! 早く早く」

 先を行く霜子の背中を追いながら、クラッドは終始無表情で廊下を進んでゆく。クラッド本人にも、何故こんなにも自身が落ち着き払っているのか、わからないくらいに。

 じきに霜子はひとつの扉の前で立ち止まる。

「ディールさんはここで休まれています。あの、いろいろあったあとなので、どうか無理はさせないであげてくださいね」

「……心配しなくても殴りかかったりしないよ」

「それはわかってますけれども! ……あ、あとこれ、ディールさんに食べるように言ってもらえます?」

 霜子が取り出したのは、彼女がクラッドとの乱闘の末アトリから手渡されていたのと同じ形の、色違いの小さな飴玉だった。

 彼女の手からそれを受け取ると、クラッドは部屋の扉に手をかける。

「了解。……じゃあ、まあ霜子ちゃんはゆっくり待っててよ」

 そう言うと、クラッドは扉の向こうへと姿を消した。かたく閉ざされた扉の前で、霜子はただ祈るばかりだった。

 

 

 

 部屋は暗く、静まり返っていた。明かりといえばベッドサイドに置かれているランプのみであり、真っ暗な闇をぼんやりとした光が照らしていた。

 大きな本棚と書斎机の他には、大きめのベッド以外に目を引くものはない。そこで、部屋の主たるものは瞳を閉じて壁に凭れていた。

 おそらく眠ってはいない。しかしクラッドが部屋に入ってきたことには気づいていないのか、影が動く気配はない。

「ディール」

 控えめな音量で声をかける。すると、閉ざされていた瞼が数回震え、光にさらされた琥珀色の瞳がゆっくりとクラッドの姿を捉えた。

「……クラッド?」

「なに、どうしたのさそんな顔して」

「いや……なんでもない、けど」

 ディールは、なぜ彼がここにいるかわからないという顔をしていた。ここ数日間ずっとさけられ続けていたのだから当然のことだろう。クラッドとしては避けていたのではなく、むしろ逃げていたという表現の方が適切なのだろうが、彼がそれを知る由もない。

「お前、ずっとおかしいぞ」

「そう?」

 クラッドは彼がよく見慣れている表情で笑ってみせたが、いつもの『なにも考えていない時』の作り笑いとはまったく違うものだと、ディールには思えた。

 しかしなにが、どこか、と説明ができるほど、彼は語彙が豊富ではない。下手に言葉を発するには、とてもじゃないが気が進まず、こちらに歩み寄るクラッドの姿を目で追うことしか出来なかった。

 クラッドはディールの隣に腰掛けると、彼の頬にそっと触れた。ほんの少しだけピリピリと痛みにならない程度の痺れが走る。

「休んでるって聞いたけど、なんかあったの?」

「お前が出て行ってすぐ、魔素不足だかなんだかで倒れた。全然なんともないんだけど、霜子さんがとりあえず休め、と」

 相変わらず他人ごとのようにディールは言う。

「……倒れておいてなんともないってことはないでしょうよ。顔色が悪いようには見えないけど、まあなんかあんだろうね」

 手の甲でするするとなでると、ディールは心地よさそうにうっとりと瞳を閉じた。

「冷たいな……」

「んなこたないよ。熱でもあるんじゃないの」

「……」

 体温はさほど高くないように思う。クラッドが手を離すと、ディールは名残惜しそうに、手が添えられていた部分を自身の手の甲でなぞっていた。

「……君さあ……」

「ん?」

「……別にいいけどさ」

 クラッドの言葉の意図するところがわからず視線を向けるが、クラッドはふいとそっぽを向いてしまい、表情はうかがい知れない。

「ついうっかり用があったことを忘れるところだったよ。一つだけ質問があるんだけどね」

「? ああ」

「『生きてた頃』の話。なんだけどさ」

 さして言いにくそうでもなく、クラッドはそう呟いた。

「俺が君にしてきたこと、君は怒ってる?」

「……」

「今さら何を、って顔してるよね。でも……今だから聞いてるんだよ。死んだあとだからこそ」

「どういうことだ……?」

 ディールの問いには答えず、クラッドは沈黙した。たとえ事情を説明したところで、ディールには彼が何を言っているかさっぱり理解できないことは目に見えている。おそらく彼が口に出すだろう言葉にも予想がついていた。それでも、ディールの口から聞かなくては、まったく無意味なことなのだ。

 そして、ディールは答えた。彼が呟いた言葉は、クラッドの予想と寸分違わぬものだった。

「俺には、腹をたてる理由が思いつかない」

「そう、だろうね……」

 ディールはやはり何一つ、何一つとして自分の感情というものに興味が無い。人からもらい、それを反映するだけの作業を繰り返しているのだ。

 彼の言葉に、クラッドはついに、自らの内にくすぶっていた感情に名前を与えてしまった。

「――ありがとうディール。もういいよ」

「クラッ……」

 ディールが次の言葉を紡ぐ前に、クラッドは至極強引にその口を自身の唇で塞いだ。

「!」

 完全に不意をつかれ、抵抗の余地すらなくディールは彼のなすがままに蹂躙される。彼自身多少強引なクラッドには慣れているはずだったが、今は未知の要素が一つ確かに加わっていることに、動揺と不安が隠せない。おそらく、クラッドも同じような気持ちを抱えているはずだ。

 二人は、体を重ねることは有れど、決して唇を重ねることはなかった。クラッドにそれをしない理由があるのか、あるいはする理由がないのかは定かでないが、おそらく後者だと感じていたディールにはもとよりしたいなどと思う理由はなく、出会ってから今日にいたるまでお互いにそんな素振りは少しもなかった。

 しかし今、クラッドは何らかの理由をもって、このような行為に及んでいるのだ。

「ん……ッ、ふ、う」

 クラッドの口吻は性急そのもので、ディールは息苦しさに喘ぎ声をもらす。

「……っ」

「は、ぁ……!」

 ようやく唇が離れ開放される。酸欠も相俟って混乱を極める思考では、もはやクラッドが何を考えているのかなどわかるはずがない。しかし、それでも。

 クラッドはこれを見越して、何もかもを有耶無耶にしてすべてをなかったことにするつもりだ。クラッドが何もいわず立ち上がったことでそのことに気づいたディールは、とっさに手を伸ばし彼の服を掴んだ。

「……離してよ」

「いや、だ」

 ぜえぜえと肩で息をしながら、ディールは答える。しかしクラッドは振り向かない。

「……今も昔も、それが当たり前なんだろうけど、君は本当に……俺を許してはくれないね」

「そんなことは……一度も」

「そうじゃない。君の心に入り込むことを、だよ」

 クラッドの声色は心なしか悲しそうで、ディールはその原因が自分にあるのだと、この時ようやく気付かされたのだった。彼が円卓の下にディールを見つけた時、わずかに歪められた表情も、すべて、自分が原因なのだと。

「嫌悪感でもなんでもよかったんだ。途中からはね、ヤケになってたから。君のことも大嫌いだった。今になって気付いたよ。俺は君に、少しだけでもいい、君自身の心に俺を映して欲しかったんだ」

 クラッドが自分の心の内を話している。それだけが異常な事実として、ディールの頭に流れ込んでゆく。

「よせ」

「でもだめだな。やっぱり死んだあとの今でさえ、俺は君の心に映らない」

「やめろ」

「そのことがわかっただけで、もう十分だよ」

「クラッド、やめろ!」

 ディールは大声で叫んだ。クラッドの告白が、彼の声が、あまりにも悲哀を帯びすぎている。人の影響を人一倍受けてしまうディールにとって、それは耐えられるものではなかった。思わず涙がこぼれ落ちてくるほどに。

「そうじゃないんだ……」

 ディールが必死に絞り出す言葉が、クラッドの怒りに触れる。

「そうじゃないってなんだ、慰めでもしてくれるつもりか? 俺のバカみたいな望みを叶えてくれるとでも? 冗談はやめてくれ。もうたくさんだよ、独り善がりなんてさぁ……!」

「そうじゃない! クラッド頼む……ちゃんと話を聞いてくれ」

 ディールがクラッドの服を掴む力は弱々しい。このまま振りほどいて部屋を出ることだって十分にできる。

 この期に及んで尚も彼から逃げ続けようという自身の発想に正直吐き気がするくらい嫌気が差し、クラッドはその足を進められずにいる。

「俺は確かに、何をされてもなんとも思わないように見えるかもしれないし、それは確かなことだ」

 嗚咽がもれないよう、ゆっくりとディールは言葉を紡ぐ。

「だけど、それはお前のことが嫌いだとか、不必要だからなんかじゃ、決してない」

 ただ、わからない。ただただわからないだけなのだ。

「お前が笑えば嬉しかったし、今のお前を見てると、こんなにも苦しいのに……これでも、俺はお前に心を割いてないっていうのか」

「それ、は……人の心をそのまま受け入れるだけの君の『特性』だろ」

「違う。俺は、ストリートで俺を扱っていた奴ら相手に嬉しいなんて思ったことは一度もない」

「でも」

「こんなにも強く影響が出るのは、お前だけなんだ。だから、そんな悲しい顔しないでくれ。……お願いだから」

 絞りだすようにそう言うと、ディールはクラッドの服を掴む手を離し俯く。今持ちうる言葉すべてを述べたのだ。これでもダメなら仕方がない。そう言っているようだった。

 しかしクラッドが歩み出すことはなかった。

「……じゃあせめて、俺のこと詰ってくれよ。口汚く罵倒してくれ。じゃないと、俺が自分を許してやれそうにないんだ」

「……クラッド」

「罪悪感なんかこれっぽっちもなかったはずなのに、今は後悔ばっか湧いてきて……苦しくて、仕方ないんだよ……」

 クラッドは震えるほど拳を握りしめてそう呟いた。しかしディールは声を荒げる真似はせず、静かに言った。

「許すよ」

「……」

「全部、俺が許すから」

「……っ」

もう、言葉は出なかった。クラッドは踵を返し、ディールの体をきつく抱きしめたのだった。

 

 

 

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「しっかし君さあ?」

「……ん」

 それからややあり、泣きじゃくるディールを慰めるため、壁にもたれかかることができ、かつやわらかなベッドの上に移動していた。

 ディールの嗚咽はようやく収まりつつあるようで、クラッドはやれやれと首をふる。

「ほんと清々しいくらいによく泣くよねぇ。子供の頃からそんな感じだったけど、まだ治らないのそれ」

「知るか。誰のせいで今こんなになってると思ってるんだ」

「まあ俺のせいだよねぇ」

「……」

 ディールに先立ちすっかり元の調子に戻っているクラッドの様子に正直ディールは少し苛ついたが、あんな顔をされるくらいなら、少しぐらいえらそうでもいつもの彼として祝福すべきだと自身を納得させる。ディールにとって昔からの泣きぐせは本当に恥ずべきものであり、もはや一朝一夕で治ってくれと神に願いたくなるほどである。

「いや、でもまてよ……」

 突然はたと思い当たり、ディールは呟く。

「キリッとしてもかっこついてないよ。黒髪の可愛い子ちゃん」

 クラッドの言葉をスルーして続ける。

「俺家ではそんなに泣いてた記憶が無い……と言うことは、これはもしかしてクラッドが」

「ま、待って待って。まさか俺にすごい不利な話をしようとしてない? 今その話をするのはやめような」

 ディールの表情の意味を察してクラッドは慌ててその口をふさぐ。すると妙なことに気が付き、彼は反対の手で彼の額に触れる。

「あれ、やっぱディール熱あるんじゃね? なんか熱いよ」

「ぷはっ……いや、そんなことは」

 言いかけて、意見を変える。

「そうかもしれない。ちょっと体が重いようなそうでもないような……。そういえばクラッド、お前霜子さんから何か受け取ってないか。あとで持っていくとかなんとか言っていたような気が……」

「……あ、そういやいわれてたね」

 クラッドは胸ポケットから霜子より渡されたものを取り出すと、手のひらの上で軽く転がす。

「食べろーって言ってたけど飴かなんかなの?」

「いや、それは――」

 ディールが概要を話そうと口を開くや否や、突然美しい赤色の飴、と思しきものは強い光を放ち、瞬時に霧散してしまった。

 霜子がこの場にいれば「そんなこともありますよ」と危機感もなく笑顔で言ってのけそうなものだが、彼女から受け取ったそれの正体を知らぬクラッドと、正体はわかっているが突然消える話など聞いていないディールはなんとも言えぬ顔で硬直している。

「なん……食べ物って言ってなかった?」

「そうだけど……ああ、でもそうか、アトリさんが拡散させるところを見……ん、なんだ……」

 言葉の途中でディールは急に眉間を指でトントンと叩き始める。

「なんか、眩暈……が」

「ちょ、ディール。大丈夫なの君」

「大丈夫……」

 言葉とは裏腹に、ディールはそのまま眠るように意識を失ってしまった。クラッドは慌てて彼の頬に触れるが、先程よりも随分と熱が上がっている気がする。

「どういう症状なんだ、これ……」

 生前であれば風邪として片付ける事もできなくはないが、生憎ここは死後の世界であり、完全に未知の領域である。散々心のなかで悪態をつき続けた少女相手に随分と現金だと思ったが、背に腹はかえられない。クラッドはディールを担ぎあげると、扉を開ける前から、少女の名を呼ぶ。

「霜子ちゃん!」

「はい!」

「!?」

 予想外の速度で聞こえてきた返事にドアノブを握る手を大いに滑らせながら、クラッドは恐る恐る扉を開く。すると、廊下の向かい側に、彼が部屋に入った時と寸分変わらぬ霜子の姿があった。

「この霜子をおよびでしょうか!」

 元気よく敬礼をする霜子の姿に、とある疑念がクラッドの心に生まれる。まさか、と感じながらも、一応の確認を取るために、彼は少女に問う。

「うそ、もしかしてずっとそこにいたの?」

「待っていろといわれたので!」

「それはどっか別室でゆっくりしてろって意味だよ!融通利かないね!」

 クラッドは霜子の馬鹿正直さにうなだれるが、霜子はなぜか少し嬉しそうにサムズアップしてみせる。

「クラッドさんの怒鳴り声もバッチリ聞こえてましたよ! あの時飛び込みそうになったのを頑張ってこらえた霜子さんを褒めてください!」

「プライベートもくそもねえなこの部屋! 変なことしなくてよかった――! ……じゃなくてそれよりもこれどうしちゃったのかな霜子ちゃん! こっち先に頼むね!」

「は! ディールさん大丈夫ですか! 今助けますからねー!」

 少なからずディールとクラッドの二人を心配していたその他大勢だったが、はるか遠くから聞こえるクラッドと霜子のやりとりにほっと胸をなでおろしたものだと、後に語った。

 霜子の指示によりそこそこの広さを持った部屋が用意されると、どこからか数人の人影が現れ、様々な美しい色の鉱石を霜子に手渡し、すぐに踵を返して部屋をあとにする。雑用係の二人、そしてセルフィと朔もすぐに部屋に駆けつけ、各々の配置につく。

 くったりと完全に力が抜けた男一人を軽々とベッドへ寝かせ、霜子はそれらの鉱石を、ディールにかざしたり、鉱石同士を打合せたり、直接肌に触れさせたりと様々な動作を繰り返す。やがて一連の過程を終えたのか、安堵の息を漏らす。

「ああ、よかった。未知の症状でなくって」

「これ大丈夫なの?」

 殊更めいてぶっきらぼうに問うクラッドに、霜子はニコニコと笑いながら答える。

「はい、概ねこちらの予想通りのようです。どうやらそれぞれの体に入った魔素の種類が影響して、ディールさんの魔素が急激に減少したみたいですね」

「……? どういうこと?」

「大体感覚でわかってもらえると思うのですが、火は水に弱い。クラッドさんの水の魔素が、ディールさんの炎の魔素を削っていたわけです」

 そう説明し、霜子は鉱石の中から赤い光を放つものを幾つか掬い上げ、ディールの胸元、本来は心臓がある部位にそっと落とす。すると鉱石は徐々に昇華し、発生した気体は彼の体に吸収されていった。

「この鉱石は魔晶鉱石といって、魔素を鉱石として凝縮させたものなんです。結構な密度で魔素が詰まっていますから、本来なら摂取した直後に意識を失うほど減少すること自体めずらしいんですけど、まあ、もう一つの原因がいろいろとアレでアレして……」

 霜子が言いよどんでいる内に十分な魔素が体内に戻ったのか、昏睡状態だったディールがゆっくりと目を覚ます。

「……」

「おはようございますディールさん。体は起こせそうですか?」

「おはよう……大丈夫……っと」

 数回深呼吸をしてから、腕を支えにして体を起こす。まだだいぶん体が重いのだろう、一つ一つの動作に緩慢さがうかがえる。クラッドは手をかそうとするが、ディールの不調の原因を気にしてか、すぐに差し出しかけた手をズボンのポケットへと仕舞いこむ。彼の気持ちを察した霜子は優しく言葉をかける。

「大丈夫ですよ、クラッドさんが気兼ねなくディールさんに触れられるように、今からちゃんと措置を施しますからね」

「いや、別にそんな」

「まあまあ。さあディールさん、これを左手に持って、もう片方の手でアトリさんの手を握ってください」

 霜子は先程とは異なる色の鉱石をディールの手に包む。その鉱石は、彼の瞳の色とよく似た琥珀色の光を放っていた。

「それは?」

「光の魔素でできた魔晶鉱石です。ディールさんは本来こちらの魔素で構築されるはずだったんですが、大気中にそれが不足していて、かわりに飽和していた炎の魔素で構築されてしまったんでしょうね」

「へー……」

 クラッドは一度納得したかのように見せかけたが、再び不満気な声を上げる。

「じゃあこれは?」

 そう言って彼が指さしたのは、今にもディールの手を握らんとするアトリであった。ディールもアトリも、霜子の指示通りに動いているだけのため、突然の指摘にきょとんとしている。

「えー……と、アトリさんは炎の魔素でできているかたなので、アトリさんに魔素を受け取ってもらいつつ、ディールさんには光の魔素を吸収してもらうという方法を取ろうかと……」

「へ――」

 本人が気付いているのかは定かではないが、彼以外の目には納得がいきませんの一点張りのような表情で、クラッドは声を漏らした。

「大切なSchatzだもんなぁ~わかるぞ~!」

 万が一を想定して待機していたセルフィが実に楽しそうな声で言うと、クラッドは躾けられていない犬のようにがなる。

「違うっての! 何がシャッツだ!」

「ははは吠えるな吠えるな」

 誰の目にも嫉妬が見て取れるクラッドの様子に、アトリは額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら呟く。

「俺、これあとで刺されたりしないかな……」

「刺したところで死なん奴が何言ってんだ」

「死ななくても痛いですからね! あなたも時々噛むのやめてくださいね!」

「じゃ、じゃあこうしましょう! ちょっとクラッドさん、耳を貸してください」

 このままでは収集がつかなくなりそうな雰囲気に、霜子は半ば強引に耳打ちする。

「アトリさんに魔素を受け取ってもらうかわりに、クラッドさんの魔素で拡散させてしまうというのはどうでしょう。ここにはかわりの魔素も十分ありますし、ディールさんに苦しい思いはさせずにすみます」

「……そんな方法あるなら先に言ってよ」

「環境に配慮してふつうは魔素をリサイクルするんですよぉ! というか霜子さんは、クラッドさんがこんなにヤキモチ焼きさんだとは知りませんでしたもん」

「だぁれがヤキモチ焼きさんだ」

 クラッドの態度に霜子は呆れを隠せない様子で首を振る。

「だったらなんだというのですか……」

「君だって所有物が勝手に他の人に触られりゃ気分は良くないだろ」

「やれやれ、今日のところはそういうことにしておいてあげますね。霜子さんは魔族長様みたいに性格がひん曲がってはいないのです」

 十二分に小憎たらしい言葉を残し、霜子は再びディールに言う。

「すみませんディールさん、やっぱりクラッドさんにご協力願う事になりまして」

「……わかった」

 ディールは頷くと、クラッドに向かって手を差し伸べる。僅かに躊躇したのち、クラッドはその手をとった。

「しばらくそのままじっとしていてくださいね」

 霜子の言うとおりに、互いに手を握ったまま、静かに時を待つ。

「なんか見てるこっちが緊張してくるな」

「ほんとうに」

 そわそわとした気配を垂れ流している魔族長とアトリの後ろで、アフリットは平常通りのすました顔で皆を見守っている。

「いいですよ~、そのままですよそのまま」

「……」

「……よし、ディールさん、鉱石を軽い力で握ってください」

 霜子の合図とともに、ディールは鉱石を握る。すると、あんなにも硬度が高そうに思われた鉱石が、角砂糖のように崩れ、欠片が舞い上がった。

 それはたちまち黄金の光の粒となり、ディールの体内へと取り込まれたのだった。

「び、びっくりした……」

 光の洪水に大半が目を瞑った中、一人瞼を開けたままだったクラッドはそう呟いた。

「無事終わりましたよ! どうですかディールさん、お体の調子は」

「……だるくない」

 手のひらを開閉させながら、ディールは感動混じりに答えた。クラッドが握ったままの彼の手からもすでに熱はひいており、馴染みの体温が感じられる。

「もう大丈夫そうですね。安心しました」

「ほんとだよまったく」

 クラッドが軽くディールの頭をはたく。怒るでもなく、少し嬉しそうにディールは笑った。

「ところでディールが倒れたもう一つの理由ってのは俺は知らなくていいの? 予防できるなら聞いておきたいんだけど」

「んんっ!」

 急に会話を掘り返すクラッドに、霜子は思わずわざとらしすぎる咳払いをしてしまう。背後にいる大人たちも多少なりとも変なリアクションをとっている。

「……え? なに?」

 これは非常にまずいことになったのでは、とクラッドが思う頃には、すでに霜子は半笑いで口を開いていた。

「いや~えへへ、その理由ですね~。いやいやほんと、クラッドさんが潜在的にディールさんを求めすぎて、結果ディールさんの魔素を異常なくらい引きつけていたなんて霜子さんにはとてもとても口に出せることでは」

「よし死のう!」

 まったく無意識下の行動を白日のもとにさらされた事により、爽やかな笑みを浮かべながら窓から逃亡しようとするクラッドを、霜子は全力で引き止めようと彼の服を必死に掴んでいる。その後ろで、セルフィがニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。

「今更はずかしがることか? 生前は散々好きだの愛してるだの叫んでたくせによ」

「あれ冗談ですから――! つーかなに面白くもねえ軽口叩いてんだよ、いろんな時系列の俺ほろびねーかなほんと――!」

 騒ぎ立てずにいつものように軽く流せばいいものを、クラッドは必死になって反論している。あまり見慣れぬクラッドの姿に、ディールはのんびりと言う。

「へんなやつだな」

「君にいわれるとなんかすごいむかつくな!」

 このやりとりには普段ポーカーフェイスのアフリットも耐え切れなかったのか、ふいと顔をそむけて口をおさえ、肩を揺らして笑っていた。

 

 しばらく彼らの軽口応酬に参加していた霜子だったが、ふと部屋の扉付近で難しい顔をしているアトリに気付き、そっと声をかける。

「どうしたんですかアトリさん」

「ん、ああ……霜子さんか」

 彼女の声に顔を上げたアトリは、やはり何か思案しているようだった。

「霜子さん……結構、大変かもしれない」

「? 何がですか?」

「君の趣味の話」

 アトリの言葉に、霜子の表情は真剣なものにかわった。

「ちょうど今さっき、クラッドくん……彼の記憶を見てたんだけどもさ。彼の罪を消すのは不可能かもしれないね……」

「ど、どういうことですか? せっかく……」

 せっかく仲直りができたのに。霜子はそう言いかけ、口をつぐむ。

 まだ、それだけなのだ。ようやく二人同時に話を聞けるようになった、ただそれだけしか、まだ達成できてなどいないのだ。忘れていたわけではないが、彼女の目的は魂の救済である。その土台がようやく整った事により、次のステップに進めるようになった。

 本当の試練は、ここからようやく始まるのである。

「彼が今、クラッドくんの気を散らしてくれているから、今なら霜子さんでもクラッドくんの願いは簡単にわかるはずだ。その上で、ちょっと色々考えないといけないね」

 含みのある口調のアトリだが、霜子がそれで気分を害することなど、あるはずがない。

 天使は、人間とは異なる存在である。ほとんどの者はその姿でさえ人とは違うものであり、当然価値観も人間のそれとは一線を画するものだ。

 そして霜子も、かつてはその一員であった。彼女は天使と形容するにはあまりにも人間じみているが、だからといって人間と形容するには、その心には異質が混ざっている。霜子はよりよく人間を理解するために少しずつその差異をなくしてきたが、未だにすべての溝が埋まっているわけではない。

 そんな霜子の欠陥とも言える部分を埋めるべく、長くサポートを続けてきたアトリだからこその言葉でもあるのだ。

「……わかりました」

「ああ、そんなに焦らなくても、しばらくは続けてくれるだろうし……って、いや、違うか」

「はい?」

「別に霜子さんのために、というわけでもなく、ただ面白い遊び道具を見つけただけかも。いやあ、どうにも俺には、彼を切れ者に仕立てあげようとしてしまう癖があるね」

 ばつが悪そうにアトリは笑う。

「……いえ、きっとどっちもあるんだと思いますよ」

「そうかな」

「はい。魔族長……セルフィ様は、器用で真面目な人ですからね」

 霜子が笑顔でそう答えると、アトリはまるで自分が褒められたかのように、嬉しそうに表情をほころばせた。

「それじゃあ、ちょっと外に出てますね」

「うん」

 椅子の上で小型獣の姿のまま毛繕いをしていた朔をひょいと持ち上げると、霜子は静かに扉を開け、部屋を後にした。

 

 騒がしい部屋の扉を閉じると、急に空気の温度がガラリと変わる。人々のぬくもりと霜子の間に隔たる壁はとても薄く、それでいて堅牢だ。

 部屋の中にいる人々も厳密に言えば、ディールとクラッド、そして魔族長の三人の人間以外は、それとは違う別の種族の者達だ。彼女一人が特筆に値する異物というわけでは決してない。しかしそれでもなお、時折彼女が強く孤独を感じるのは、自身が『生まれながらの天使』だということを深く気にしているほかない。

『大丈夫だ、霜子』

「……」

 しかし今は、本当に孤独であった昔とは違う。いつも隣で支えてくれる朔を含め、その他大勢が自身のそばに居てくれる。例え戦えるのが自分一人だとしても、力を貸してくれる者はたくさんいるのだ。

 幾度となくそう強く心に刻み、霜子は再び、意志のこもった瞳で朔を見据え、固く拳を握ってみせる。

「はい! うじうじしてはいられませんね」

『ちゃんと救える。きっと』

「……ええ!」

 力強く返事をし、霜子は小さなポーチから無色透明だが時折七色の光を放つ液体の入った、人差し指ほどの大きさの小瓶を取り出した。

 彼女がそれを両手で包むと、中の液体がゆっくりと動く。少しずつ白い光が現れ、それが霜子の体を包むころ、霜子の視界はクラッドの記憶に完全に繋がる。

 心や記憶を覗く力は、天使という『役職』のみが持ちうる能力である。例外として魔族長やアトリ、アフリットという、この世界における重役たちにも使用が許されている。

 しかし本来『天使』から降りた者はその力を完全に失うが――それは仮に天使という文字列を含む大天使であっても例外ではない――霜子は生まれながらの特性から、誰の許可もなく、何一つ代償を必要としないままその力を行使することができる。

 霜子は生まれたばかりの頃、この力を抑制するすべを知らず、見たくないものまで容赦なく飛び込んでくる自分の特性を酷く嫌ったこともあった。それでも今はこの特性が彼女を助けているのだから、わからないものだ。

 ゆっくり、ゆっくりと、装飾された記憶の表面から、むき出しになった心の中へと沈み込んでゆく。内に眠る願いを汲み取るために。

 セルフィの行動が功をなしてか、比較的簡単に心に触れることができた霜子だったが、閉じた瞳を再度開ける頃には、霜子の目からは大粒の涙が溢れていた。

 霜子から間接的に流れてくる記憶を手繰っていた朔も、彼女の肩の上で静かに心を痛めていた。

 ――悲しい。悲しい。

 ――どうしても救いようがないというのか。

 ――確かにあの男は、人として犯してはいけない罪を数多く抱えているようだ。

 ――もしかしたら、彼に思い出させるべきではなかったのかもしれない。

 ――すべてを思い出した今、これほど悲しいことがあるだろうか。

 何も思い出さず、ディールの存在が消え、クラッドも審判により魂の消滅を迎える。そんな終わり方が彼らにとって幸せだったのかもしれない。救済を世界に誓った自分たちが、よもやそんなことを考えてしまうなど、到底許されることではないというのに。

 ただ静かに、二人は悲しみにくれていた。

 

 

 

 クラッド・ベルンハルト。

 齢十一にして、自身の家族とその他同じ屋敷内にいた人間たちを一晩の内に殺害した殺人犯が彼である。実際には協力者がいるが、世間にはその協力者の存在は愚か、彼が事件を起こした張本人であることさえ公表されていない。

 屋敷唯一の生き残りとして匿われていた彼だったが、やがてその場所から姿を消し、外からの情報は入ってくるが内から漏れることが殆ど無い、吹き溜まりの街へと移住した。そこでディールと出会い今に至るのだが、その間にも彼が起こした問題や細かな犯罪の類は数知れない。

 まさにどうしようもない外道であるが、唯一、人のために命を落としたという事実だけが、かろうじて彼の魂をこの世界に繋ぎ止めていたのだった。

 彼がディールに対して行った様々な仕打ちも数として含まれそうなものだが、ディールから直接の許しを得たため、その罪は洗い流されたようだ。だがそれを幸いだと言えない程度には、彼は罪で汚れていた。

 霜子は今までも、彼と同じくして罪で心を真っ黒に染めた人間を救済するべく奮闘したことがあったが、そのどれもが失敗に終わっている。

 そして今回も、救う手立てが見つかっていない。

(それなのに、彼の願いがこんなものだなんて)

 あまりにも、残酷だ。

 霜子は嗚咽をもらしながら、そんな彼の内に見出した、唯一美しく尊い光を想った。

 魂を浄化するために叶えようにも、前提条件が満たされない。彼が汚れなければ、すぐにでも叶えられたであろう願い。

 過去を帳消しにしない限りは、お世辞にも現実味があるとは言えないものだった。

 それでも霜子は、諦めようなどとは微塵も思わなかった。前回失敗しているとして、今回もまた失敗すると確実に決まっているわけではない。

 地盤はすでに固まってしまった。それ故、彼の魂が消えてなお自身が存続することを、おそらくディールは望まないだろう。

 クラッドがディールの存在なくして自身が存在する意味をみいだせないように、ディールにとっても、彼のいない世界に生まれ直すには、あまりにも意味が無いのだ。

 何か一つ、たった一つでも彼の魂を浄化できる方法が見つかれば、それは現状を覆す大きな一歩となるはずだ。

 希望だけは、捨ててはいけない。霜子は涙を乱暴に拭うと、意を決し、皆の喧騒で溢れかえっている部屋の扉を開いた。赤く目を腫らし嗚咽を漏らす霜子の姿に一同はぎょっとして仰け反ったが、彼女は大きな声で異様な空気を吹き飛ばす。

「クラッドさん、ディールさん、お話があります」

 もうしばらくこの騒々しい空気に浸っていたいと一番に願う霜子だったが、もう、自分の事情を優先させるような曖昧な態度ではいけないのだ。

 強い瞳で訴える霜子に、部屋の中にいるすべての種族は真剣な眼差しに変わるのだった。

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