Story after the end black 1
自分の人生に期待など微塵もしていなかったけれど、まさか、ここまで予定通りにいかないとは思ってもみなかった。過ぎたことにどれだけ文句を言ってもしかたがないとわかっていながら、今この時だけはさすがに許して欲しい気持ちでいっぱいだった。
もう二度と目覚める事のないようにと、願い、受けた弾丸に、そもそも効力などなかったようだ。地面にそのまま横たえた体を起こす気力さえなく、クラッドはおおよそ十分の間、現実を受け入れられないまま、ただ空を眺めていた。
あまりにも素晴らしい晴天だ。自分が生きてきた世界では到底見ることができないような、とても高く、青い空。もしかしたら、天国なんてものがあったならこういう空が広がっているのだろうか。いつもならばバカバカしいと笑い飛ばしているところだが、生憎今のクラッドに、そんな余力は残っていなかった。
死ねば、全て終わると思っていた。記憶も存在も掻き消えて、あとに残るのは永遠の無だけ。感じることも考えることもなく、今まで自分がやってきたことを考えると、生まれ変わることもない。死ぬ間際に何もかもの気力を破棄してしまったため、今は口を開くことさえ億劫だ。それでいながら、妙な後悔だけが頭の中をグルグルと駆け巡っていた。
どれだけまばたきをせずとも瞳が乾かないところからすると、死にきれず生にしがみつかれているわけではなさそうだ。それだけはこの受け入れがたい状況の中で唯一の救いだった。あんなことをしておいていまだに生きているなんてことになったら……考えただけでもゾッとする。
遅かれ早かれ、自身の命が奪われるだろうことを確信していたクラッドとしては、結果について文句はなかった。自身が殺されることで誰が幸せになるのか、誰が不幸せになるのかなどわかりきっていたが、おそらくそうなるべくして、そうなったのだ。不幸になるために生まれた人間などいないのかもしれないが。
そっと、弾丸がめり込んだあたりの皮膚を撫でてみる。当然傷口は無いのだが、なんとなく異物感を感じた。名残のようなものがあるのかもしれない。
結局ここがどこで、今がいつで、何がどうなってこうなったのかはわからないが――どうでもいいか。
クラッドは半ばやけくそになりながら、瞳を閉じ改めて世界の音に耳を傾ける。小鳥の囀りや木々のざわめきが心地いい。視認してはいないが、自分の横たわっている場所のすぐ近くには噴水があるようで、勢い良く水が流れ落ちる音が聞こえる。照りつける太陽の割には、地面に敷かれている煉瓦は冷たい。
あとは――人の足音。片方は子供で、もう片方は大人のものだろう。目を開けばその正しい姿もわかるだろうが、一度閉じてしまった瞼を再び押し開けるには、ほんの少し興味が薄かった。大人と子供の組み合わせには警戒心を高めるクラッドだったが、ここが死後の世界だと確信しているため護身をする気さえ起きないのだ。
そうこうしている間にも、足音はこちらへ一歩、また一歩と近づいてくる。子供のものと思われる足音がクラッドの隣で止まり、そのすぐ後ろでもう一つの足音も止まった。
それからしばらく何事も無く、ただ足音の主であろう二人組が何かを話し合っている声を聞いていた。話の内容までは、頭に入ってこない。
ほぼほぼ微睡みに支配されかけてきた頃、クラッドの額に何か冷たいものが乗せられた。
「あ~……」
スポーツをしたあと頭から水を浴びた時のような爽快感に、クラッドは思わず声を上げる。すると冷たいもの――おそらくは温度の低い手のひらだろう――をクラッドに乗せている子供が、心底ホッとしたように息を吐いた。
「よかった……まだ生きてるみたいです」
「そうみたいだな」
「でも意識レベルが低いみたいですね。半分眠っているみたい」
「このまま運ぶ?」
「どうしましょうねぇ」
声から察するに、子供は十四そこらの少女、大人の方は二十を少し超えたくらいの男だろうか。少女の手によってほんの少し浮上した意識で薄目を開けると、クラッドの予想とそう変わらぬ年齢層の男女が彼の顔を覗きこんでいた。
「あ、目、覚めたみたいです。もしもーし、私の言葉がわかりますか?」
ひらひらと目の前で手を振られる。言葉はわかる。流暢なドイツ語、クラッドの母国語だ。わかりますよというアクションは取れないため、とりあえず短く返事をする。
「良かった、なんとか大丈夫そうですね。詳しいお話はあとでゆっくりとさせていただきますので、とりあえず今は安全な場所に移動しましょう」
少女の提案に、すぐ後ろに控えていた男が訝しげな声を上げる。
「まさか潜るのか?」
「いやいや、さすがの私でも、この意識レベルで潜ったりしたら記憶の大混乱大混線まちがいなしってわかりますからね! そっちのほうがはるかに時間は短縮できますけど、今は朔の背中に乗せてあげるべき!」
「ご、ごめん」
少女に軽く背中をはたかれ、男は慌てたように両手で顔を覆った。今のこのタイミングのアクションとしては不自然なものだったが、男がその手を顔から離すと途端にあたりの風景が白一色に染め上げられた事により、その仕草には別の意味があったことを知る。
あまりの光に反射的に顔をかばう。その手のひらを除けた時、そこにはすでに男の姿はなく、かわりに豊かな体毛を湛えた大きな獣が翼を広げて佇んでいた。
「……」
(今更何が出てきたって驚いてやらねえ……)
頭を掠めた言葉を口には出さず、クラッドはその大きな獣をまじまじと見つめた。
大きな体をしているがとても優しい目をしている。ウサギのような細長い耳に、光沢のない薄い角。後ろ足はなく、龍のそれに似た長いしっぽが生えていた。
クラッドは黙り込んだまま、生前に少し読んでいた子供向けのファンタジー小説の内容を思い出す。
――確かその本にも、人間が変化した動物が出てきていたっけ。
目の前の大きな獣は先程までそこに立っていた男そのものなのだろう。むしろそうでないと言われた場合、今度は男がどこに行ってしまったのかが問題になってくる。
クラッドの確信めいた予想を裏付けるように、少女が青みがかった銀髪を揺らしながら、大きな獣へと駆け寄ってゆく。
「さあ行きますよ朔、安全運転でお願いします」
この姿になると言葉を失うのか、朔と呼ばれた獣は返事のかわりに翼をゆるゆると動かした。
その動作に満足そうに頷くと、少女はクラッドの元へ再度歩み寄り、力が抜けて普段よりも重いその体を軽々と肩に担いでみせた。傍目にはとても危ういが、どうやら少女は力に自信があるのか、それとも何か特殊な仕掛けでもあるのか、無理をしている様子はない。担ぎあげた体を獣のふんわりとした背中に乗せ、子供にするようにクラッドの頭をゆるゆると撫でた。
「少し時間がかかりますので、眠っていてください。ずいぶんお疲れでしょう」
翼の生えた獣の背に乗せられたということは、これから暫く空の旅のようだ。こんな不安定で――頭部の角の間に体を挟まれている状態なのでそこまでではないが――しかも空中で意識を失うのは避けたいところだ。しかし少女の心地良い手のひらの温度が、優しく撫でる指が、ギリギリで繋いでいる意識を眠りに誘うのだった。
(まあいいか、どうせもう死んでるんだし)
あらゆる事象に抗うことを諦めたクラッドがすやすやと寝息を立て始めると、朔は出来るだけ揺れないよう、ゆっくりとその体躯を浮上させた。
彼が障害物のない上空まで飛び上がるのを見届けると、少女は彼らとは別の方向へと駆け出し、辺り一帯は再び静寂に包まれたのだった。
✂ ✂ ✂
ガラガラ、ゴロゴロ、ひたひた、しとしと。様々な音や、声が流れていくのを聞いていた。
白くて大きな獣――やはりあれは少女の傍にいた朔という男だったらしい――に、少女曰く安全な場所へ運ばれたあと、クラッドは暫く聴覚だけが生きた状態で眠り続けていた。要するに、眠気が極限にまで至り、体は動かないが、まだ音は聞こえているという状態だ。
あらゆる生理現象や欲求から切り離されていたために、ほとんど死んでいるようなものだった。呼吸をする必要がないうえに、クラッドには自身の心音さえも聞こえなかった。
そんなこんなで、長く眠り続けた結果目覚めた時の倦怠感は想像を絶するものであった。生まれてこのかた体調不良とほぼ無縁だったことも相俟って、ベッドの縁に座るのも精一杯というひどい有様である。
「醜態だ……」
「き、気を落とさないでください! ようやく起き上がれるようになったんですから、もっと喜びましょう! ね!」
頭を垂れて落ち込むクラッドの横で、銀髪の少女、霜子が一生懸命に明るく元気付けようとしている。が、子供の前では格好をつけたがるクラッドにとってはマイナス効果のようだ。
彼女はクラッドが朔によって運ばれていったあと、秘密の抜け穴を通って一足先にここへ辿り着き、クラッドがゆっくり休めるよう準備をしてくれた、いわば恩人である。彼女は彼の聴覚が生きていることを知っていたようで、時々部屋に訪れてはいろいろな話をして、また帰っていった。そのおかげで完全な無音に苛まれることはなかったのだが、話のほとんどは頭に入っていかず、大事な話だったならごめんね、とクラッドが謝ると、霜子はいえいえと笑顔を返した。
せかせかと身の回りの世話をしてもらっているときは静かな子だという印象を受けていたが、実際話してみると霜子は随分と騒々しく――よく言えば明朗快活であることがわかった。今日に至ってはクラッドが目を覚ましたことがよほど嬉しいのか、いつもよりもうるさいと朔に小言を言われてしまったようだ。
「いやあ、でも、本当に目が覚めてよかったです! このまま眠ったままなんじゃないか~って、すっごーい心配したんですからね。話さないからわからないでしょうけれど、朔も心配してたんですよ。軽すぎるって」
霜子に頭を撫でられ、初めて見た時よりもとても小さい膝乗りサイズにまとまった朔は、白い翼をパタパタとはためかせた。否定だったのか肯定だったのか、今の彼の心情が理解できる霜子のみが、へへへと嬉しそうに笑っている。
「俺そんなに軽いかな? これでも体重は重い方なんだけど……」
「あー、えっとですね、体重のことではないんです。なんと言いますか、生前と違ってこの世界では体を構築する魔素というものがありまして。それが極端に削れていたんです」
「ほう生前。やっぱ死んでんだね」
「そうです死ん……はっ! ち、違うんですあの、えっと!」
「いいよいいよ、とくに死んでてショックなことがあるわけじゃないし。むしろまだ生きてますよって言われるよか、一千倍はマシだよ」
「あ、ああ……はあ。まあご本人がそうおっしゃるのであれば、私はよいのですが……」
どうやら死後であることは伏せて話をするつもりだったのだろうが、クラッドにしてみれば、死を隠したままできる話などどれほどあるだろうかと思うところだった。しかし自身は早々に気がついたが、気づかぬ者は最後まで気づかないということもあるんだろう。
「ま、落ち込むのはあとにとっといて。これから俺は審判にかけられたりするわけかな?」
「し、しんぱん。しんぱん……そうですね。でも霜子さんはそのために他にいろいろ……ううん」
「いろいろ? 他にもなんかすんの?」
「う、まだ内緒です! いろいろやることは内緒ですけど、それ以外に関する質問があればお答えできるようにしますよ!」
彼女の言ういろいろ、とは相当に言葉にし難いものなのか、クラッドには伝えてはいけない事柄なのか。言いたくないのであれば、正直無理に聞き出すほど知りたいとも思わないので、クラッドは彼女の発した言葉の末端を素直に拾うことにした。
「わからないことのほうが多いんだけど、あんまりそれを埋めようって気にならないんだよね。逆に知ってたほうがいいことがあったら、それを聞いておこうかな」
「知ってたほうがいいこと……わかりました! なんかありますかね、朔?」
「そっちに聞くのか……」
『霜子は説明するには向いていないから』
「おおっ?」
朔が霜子の膝の上で姿勢を正す様子を見守っていると、とたんに頭の中に男の声が響いた。一、二度聞いた程度だったためわずかに理解が遅れたが、これは朔の声だ。
「な、なんだこれ。テレパシー的なあれ?」
『特殊な立場だから、口に出さない方がいい情報はこうして共有している。普段は霜子にしか聞こえないようにしているだけ。結構消耗が激しいから』
「それ、俺なんかに使っちゃっていいの?」
『気にすることはない。必要な時には使う。霜子は説明、あまり上手くないからな。……俺が説明上手かというとそうでもないけど』
(ふ、不安だ……)
朔は霜子よりも落ち着いた性格だが、マイペースなのか話し方がかなりふわふわとしている。感覚だけで言うなら、霜子と同じくらいの年齢の子供と話している気分になる。誰か似たような雰囲気の人間を知っている気がしたが、思い出すことはしないでおいた。なんとなく、クラッドにはその人物を思い出してはいけないように思えたのだ。
一瞬難しい顔をしていたのを自分に対する不満と勘違いしたのか、小さな獣は翼を振った。
『やっぱり霜子と話すか?』
「ごめんごめん、そういうんじゃない。気にしないでお話をどうぞ」
『……正直、知らなければこの世界で過ごしていけない、というような決まり事はひとつもない。全てなるようになっていく。ので、すでに自分が死んでいるということを理解している上で、知っていてもいいだろうということを伝えようと思うがどうだろう』
「お願いします」
クラッドが手で先を促すと、朔は了承の合図を出した。彼を膝に乗せている霜子にもこの会話は聞こえているようで、心なしか背筋がピンと伸びている。まるで先生の話を聞く就学直後の児童のようだ。
『まず一つ目に――……』
朔の話はわかりやすいが意外と長く、それに加えて霜子が要所要所でツッコミを入れて来るため、話し終わりには彼も何を言っているのかわからなくなってきたようで、最終的には何を言いたかったのかを紙に書いて手渡す形に落ち着いてしまった。苛立つことはなく、逆に少し可笑しくて、もうしばらく聞いていたい気分だったが、とりあえずはこういうことらしい。
・人間であった頃とは違い、体が魔素という物質で構築されており、魔素は少しずつ離散するため定期的な補給が必要である。
・食事や睡眠など、人間が生きるために必要不可欠なあらゆる要素は満たす必要がない。が、満たせないわけではなく、むしろこの世界の殆どの者は死後という意識が無いため、生きていた頃の生活をそのまま続けている場合が多い。
・この世界に辿り着き一定期間が過ぎると、例えば生まれ変わる、ここで消滅する、などを天使――一定数存在する裁判官のようなものらしい――という存在によって定められる。
「……という感じですがわかりますかね」
箇条書きされた用紙を読み上げ終わった霜子は、ものすごく微妙な表情を浮かべて問いかける。
「そんな顔しなくても半分くらいはわかったよ」
「半分! 半分かぁ~! でも半分でも伝わったならいいかな……いいですよね」
『いいんじゃないか』
「獣でも微妙な顔ってあるんだね……」
二人の話を聞く限り、本当になるようになる、ということらしい。ここに辿り着いてから審判までの一定時間は、天使が対象を調査する期間であるらしい。クラッド自身、自分が相当質の悪いことをしでかしてきた自覚があるため、すぐにでも判定できるのではないかと問うたが、どうやらそうはいかないらしい。
「この世界に来てすぐは、いろいろ忘れ物をしているんです。クラッドさんも例外ではないんですけど、まだ完全に魔素が定着していないし、伝えるかどうか決めかねているところなのです」
「忘れ物? 物理的に?」
「記憶的に、ですね。大切なこと忘れているんですよ、今のクラッドさん。思い出せませんか? それとも、思い出したく、ありませんか」
急に声のトーンが少し下がったかと思うと、霜子は寂しそうな顔で俯いてしまった。すぐには思い当たることがなく朔に視線を送ってみるが、彼も静かにクラッドに視線を返すのみで、言葉を発する気配はない。突然訪れた静寂に戸惑うが、思い出さないといけないくらいのこと、もしくはものを忘れているとなると、記憶力に確かな自信があるクラッドとしてはあまり面白くない。
「ヒントちょーだい。人か物か」
「はい。クラッドさんと同じ人間ですよ」
「そっか、人かぁ」
朔が話しかけてきた時の感覚を思い出す。クラッドはあの時たしかに、誰かに似ていると感じた。しかしそれと同時に、思い出してはいけない気もした。自身が思い出すべきではないと感じる人間が、果たして霜子の言う人間なのかどうかもわからないが、もしそうであるなら、思い出したくないにも関わらず思い出さなくてはならないという、なんとも気分の悪い話だ。
思い出す必要はあるのか、と問うてみたい気分だが、クラッドが覚えていないことによって霜子がこんなにも元気をなくしてしまっているところを見ると、考えを改めたほうがいいのでは、という気持ちになってくる。
「一応……なーんか思い出しそうだったんだけど、それかね……」
「! そ、それです」
「わかるの?」
クラッドの問いに、霜子は力一杯何度も頷いてみせる。
『別に答えを教えてやってもいいんじゃないか?』
「弱い力から徐々に力強いビンタにするか、それとも最初から最大出力のビンタをお見舞いするかの違いなのですよ、朔……。徐々にやっていけば耐えられる限界値がわかりますけれど、最大出力でべしんとすると壊れてしまうかもしれないじゃないですか」
『何故ビンタで例えた』
「とにかく、まだクラッドさんについてよくわかってないんですから、無闇矢鱈なことはできないんですよ。帝王切開は最後です」
『今度は出産か』
突っ込みを入れる朔をもさもさと撫でつつ、霜子はその人間について口に出したい衝動と闘っているようだった。
「も、もひとつヒント! 黒髪の男の人です」
「男ォ!? 一気に思い出す気失せた! よりによって思い出さなきゃいけないのが男とは!」
「そんなこと言われましても! クラッドさんは男性がお嫌いですか!」
「すげー答えにくい聞き方をするんじゃない!!」
『いいんじゃないか?』
「よくない! え、なにが!?」
クラッドは声を荒らげて抗議するが、霜子と朔の二人は至ってのほほんとしている。
「まあまあ、黒髪男性というキーワードをもとに記憶をあさってみてくださいよ。なんか出てくるかもしれませんよ! 今度こそ!」
「そう言われてもなぁ……男、男かぁ……せめて黒髪の可愛い子ちゃんならな~」
「可愛い子ちゃんですよ? 黒髪の」
「ん、んん~? どこまで本気のヒントなのかまったくわからん……」
ますます思い出す気が失せていくのを感じる。むしろもう思い出さないほうが幸せなんじゃないか。そう思い始めた頃、唐突にノックの音が響いた。
騒がしい室内が急に静まり返る。霜子は固まり、朔はやれやれと首を振った。
「なに、なんなの?」
現在クラッドは、室内にいる二名のほかは完全なる未知だ。朔はともかく、霜子の類稀なる緊張の仕方が気になって仕方がない。
朔はフウと溜息をつくと、今まですっぽりと収まっていた霜子の腕から抜け出し、クラッドが座っているベッドの隅へと移動した。
『時間がかかりすぎたな。……彼が来たぞ』
朔が言うが早いか、部屋の扉が勢い良く開かれた。
「……」
薄暗い廊下から現れたのは、クラッドよりも少し背の低い、黒髪の少年だった。部屋に入るやいなや霜子のことを睨め付けており、霜子はその視線から逃れようと体ごと顔を限界まで逸らしている。
「……黒髪の可愛い子ちゃん?」
「あ?」
「ああ――! たしかに! たしかに魔族長様も黒髪の可愛い子ちゃんですねぇー! でもクラッドさんが思い出さなきゃならない人は、たぶんこんな怖い顔しませんから! こわいこわい!」
霜子は自身が魔族長と呼んだ少年と目を合わせないよう、ものすごい姿勢で仰け反っている。それなりにオーバーリアクションが目立っていたが、この反応は本物のようで、かなりの冷や汗をかいている。朔までもが枕の下から出てこないとなると相当のようだ。
「じれったい! すごくじれったいぞ霜子。何やってんだ」
「ずびばぜん。だって石橋は叩いて歩かないと怖いんですぅ」
「叩いて渡るものです。こいつの場合は大丈夫って言ったろうが……朔もなんで言ってやらない」
『俺は言ったぞ。ちゃんと言った』
「朔の提案を蹴るほどの心配要素があったのか? ん? んー?」
「ずびばぜんでじだぁ!!」
「気持ちはわかるが、応用問題も答えられるようになろうな。はいとりあえずこの件はこれで終わり」
少年が霜子を小突くのをやめると、枕の下に埋まっていた朔が顔を出し、小型化した時の定位置なのだろう霜子の膝の上へと、再び戻っていった。霜子は朔が膝に戻ってきて多少安心したのか、視線が泳がなくなった。少年がそちらを向いていないから、という理由もあるのだろうが。
「さて」
壁に立て掛けてあった折りたたみ式の椅子を広げそれに腰掛けると、少年は青い瞳をクラッドへと向けた。
「自己紹介はとりあえず後回しにさせてもらう。霜子たちから聞かされているだろうが、君に思い出してもらいたいことがあってだな。なに、思い出したからといって何かがマイナスになるわけじゃない。元の状態に戻るだけだ」
「思い出さなきゃいけないっていうのはなんでなのさ?」
「人一人の存在に関わることだからだよ。おそらく君が彼に関する記憶を封印し続けるなら……近いうちに彼は消えるだろうな」
「……なるほど」
そんな深刻な話だったから、霜子はあんなにも悲しい顔をしていたのか。それならそうと早く言ってくれればよかったものを。
クラッドはそう思いはしたが、おそらく彼女は、記憶の欠落したクラッドからすると『見知らぬ誰か』にあたる彼を、ただの他人を助けるという名目で強制的に思い出させる、ということをしたくなかったのだろう。しかしことは急を要する。そのため、この少年が駆けつけたというわけだ。
彼女の気持ちはわかっているうえで、少年はひらひらと手を振った。
「それでタイムオーバーしてりゃ世話ないわけだが」
「ぐぬぬ……」
「ほら霜子はもっと肩の力抜け。ま、そんなわけだから。クラッド・ベルンハルト、君には何が何でも思い出してもらわにゃならんわけだ」
お前の意見は聞いていない、というような口振りでそう告げると、少年は平たいバインダーから小さなメモを抜き取り、クラッドへと手渡す。
「お前にゃこれで十分だよ。良くも悪くもな」
「なにそれ……」
兎にも角にも、一人の存在が自分の手に委ねられているとなると、文句を言う気にはなれなかった。クラッドは促されるまま、ゆっくりとメモを開いた。そこに書かれていた文字を目でたどった一瞬――クラッドの影が大きく歪む。
「拡散する……!」
とっさに身を乗り出した霜子の腕を掴んだまま、少年は静かに制止する。
「でも魔族長様!」
「大丈夫だっての。落ち着け、もう平気だよ」
少年の視線を追って霜子もゆっくりと視線を戻す。彼女の焦りとは裏腹に、そこには先程と変わらぬクラッドの姿があった。一瞬形があやふやになった影も、今は元に戻っている。霜子はほっと息を吐いて安心したのだが、すぐにクラッドの表情に再びその身を硬直させる事となる。
クラッドの顔には、あからさまな怒りが浮かび上がっていたのだ。
「く、クラッドさん……?」
恐る恐る顔を覗きこむ霜子に一瞥をくれると、クラッドは強く頭を掻きまぜた。
「ああもう、本当に散々だよまったく!!」
重く床板を踏みしめながら立ち上がったクラッドの姿を、霜子はぽかんとした顔で見上げるしかなかった。
(魔素が一気に安定した……)
少しの揺さぶりで消え入りそうだった魂を危惧していたのが馬鹿らしくなるくらいに、怒りを露わにするクラッドの存在感は増していた。冷水のようだった気配が、今は沸騰している。彼の魂の強固さを霜子ほど疑っていなかった朔も、突然の魔素の定着具合に驚きを隠せない様子だ。一人こうなることを予測していた少年のみが自慢げな笑みを浮かべている。そんな余裕たっぷりな彼に歩み寄ると、クラッドは無表情のまま問うた。
「どこ?」
「彼か? ここからだいぶん奥にある部屋だけど」
「案内しろ」
「お、おう……」
あっけらかんとした雰囲気を切り捨てたクラッドの様子に若干気圧されつつ、先に廊下に飛び出したクラッドのあとを追う形で、少年は部屋を出た。
床に散らばった書類を一人と一匹で拾い集める途中、霜子はふと、少年がクラッドに手渡した紙に何が書いてあったのかが気になった。それは霜子が見てはいけないものでは決してなかったが、何故か彼女は朔に背を向けながら、メモを覗きこむ。
そこにはたった一文記されているだけで、まだクラッドについて『よく知らない』彼女にとっては、まったく意味のわからないものでしかなかった。
――もっといい首輪をつけてやれ。
大きく首を傾げる霜子の後ろで、朔は小さく欠伸を漏らし、残りの書類を彼女に変わってかき集める作業を開始するのだった。
あと少しすると、自らの邸宅とも言える屋敷内を散々走り回されくたびれつくした少年が、部屋に転がり込むやいなやスヤスヤと寝息を立ててしまい、その体を本来の寝室に運んでやるのも朔の仕事であることに、彼はまだ気づいていない。
その後数日間、少年に案内された例の部屋にこもりきりで姿を見せなかったクラッドがひょっこりと現れたかと思うと、またひっそり何処かへ出かけてしまった。やけに神妙な面持ちだったため、そこにいた誰もが声をかけることが出来ず、ただ彼が消えた方角を見据えるのみであった。